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「ここいらで落とした財布誰か見ませんでした?」-共感音楽と米津玄師『STRAY SHEEP』-

かなり前にTik Tok経由でヒットしたポップソング(瑛人「香水」、落合渉「君が隣にいることいつか当たり前になってさ」、りりぁ「浮気されたけどまだ好きって曲。」など)を、分析をした記事を読んだ。

曰く、アコースティックギターに合わせてパーソナルな恋愛感情の揺らぎをを歌った歌詞が、ティーンの共感を呼び、Tik Tokでシェアされているのだという。
普段からティーン向けアプリを見ない人間にも納得のできる理由だったし、恋愛感情に対する共感からヒットする、というのは、FUNKY MONKEY BABYSや西野カナの時代から変わっていない現象である(もちろんそれ以前の時代も『共感』を呼んでヒットした曲は多くあった)。


ただ大きく変わったのはアコギ1本で演奏された、いわゆる余白があるポップスが立て続けにヒットするようになったということだ。
音数が少ない楽曲のほうが歌詞に浸れるのか、はたまたカバーする際に真似しやすいのか、理由は定かではない。
しかし「シェア」を前提にした時代だからこそ、アレンジやトラックに変化が起きているのは確かだ。
新しい「共感音楽」が、今の日本のポップスシーンには生まれている。

ここまで書いてふと立ち止まる。自分は歌詞に共感したことがあるのか、と。記憶を辿っていくとつい最近、こんな歌詞に共感した。

ここいらで落とした財布 誰か見ませんでした?

ついこの前、財布を落としたからなのだが。

落とした財布は戻ってきていないが、米津玄師の最新アルバム『STRAY SHEEP』がミリオンを達成した。「感電」や「Lemon」、「Flamingo」、「馬と鹿」をはじめとした収録曲のほとんどが、ストリーミングチャートのトップ50にランクインしている。

間違えなく、米津玄師の音楽が日本を席巻している。かくいう僕の家にも、『STRAY SHEEP』フィジカルCDがある。母が聴きたがったためだ。ここ最近は家に帰ると、必ずデジタルエフェクトをかけた米津の声と、トラップビートが鳴っている。

かくいう自分も、イヤホンでずっと聴いてはいるのだが。

2018年3月に「Lemon」がリリースされて以降、彼の音楽は日本中の人々に聴かれるようになった。

なぜ人々は米津玄師を聴くのだろう。

歌詞に共感できるわけでもなく、メロディがわかりやすいわけでもない、アレンジもMr.Children以降のJ-POPマナーとは一線を画す。むしろ、彼の和音の使い方は、不協和音が用いられているし、アレンジメントに関してもアンビエントR&Bの意匠ーーエフェクトがかかった声と隙間の多いビート が用いられている。決して耳馴染みがいいから聴かれているという訳ではない。

強いて言えば、米津玄師は「Lemon」を契機に、自覚的に多くの人々に聴かれる音楽(それらは『歌謡曲』や『J-POP』と表現される)を志向し始めたということが挙げられるかもしれない。
「Lemon」の制作過程のなかで彼は、松任谷(荒井)由実の「Hello,My Firend」から大きな示唆を得た。それは「別れ」という概念を、「別れ」という言葉を使わずに歌詞として表現することであった。あえて具体的なフレーズを使わないことで、米津玄師の楽曲は普遍性を獲得したのである。


これ以降彼は、一つの概念を軸に歌詞を組み上げていくようになった。

その原動力となったのは「タイアップ」である。五十嵐大介原作のアニメ映画『海獣の子供』の主題歌である「海の幽霊」、池井戸潤原作のドラマ『ノーサイド・ゲーム』の主題歌「馬と鹿」。野木亜紀子脚本のドラマ「MIU404」の「感電」や、大塚製薬「カロリーメイト」のCMソング「迷える子羊」。セルフカバーソングである「パプリカ」と「まちがいさがし」や、「Flamingo」と「Teenage Riot」も、書き下ろしではないもののタイアップがついていることから『STRAY SHEEP』収録曲の半数以上がなにか「お題」を与えられて世にでた楽曲だ。

各タイアップソングに共通るするのは、彼が作品のなかにある「誰しも共感できる部分」を掬い出し言葉を紡いでいったことだ。ただ、あくまでもお題に対して、わかりやすい言葉を用いて言い切ることはしない。

そうすることで米津玄師独特の言い回しと、リスナーが感情を込めることができる余白が両立し得る。ある意味、クリエイティヴィティと、大衆音楽が両立しうる黄金比を彼は発見してしまった。


その結果、各曲は米津玄師の手元やタイアップ元に込めていた意味を離れ、多くの人に共有されていく。そしていつの間にか、日本中の子どもたちが「パプリカ」を踊り、ラグビーの試合で「馬と鹿」が流れる。ポップミュージックに一切興味ない母親が「まちがいさがし」を聴く。それが個人的な「ままならなさ」を歌ったものだとしてもだ。

実質的な表題曲「迷える羊」で彼は歌う。

「1000年後の未来には 僕らは生きていない
友達よ愛しているよ いつの日にもきっと」
誰かが待っている 僕らの物語を

彼はおそらく自分自身(と、自らに近しい感情を持っている人たち)の物語を、直接見えない人々が触れることを想定してポップミュージックを作っている。そして1000年先の人々にも共振するような普遍性を、追求しているのではないだろうか。

米津玄師の音楽は「共感」を目指しているものではない。けれども「共振」するようなポップスを作っていることは確かだ。だから、おそらく僕は「ここいらで落とした財布誰か見ませんでした」なんて歌詞に共感しなくても、米津玄師を聴き続けてたことだろう。

(ボブ)

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