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日記は書けない

下北沢ボーナス・トラックという場所は同行者曰く「おしゃれだけどいけ好かない」ところだった。

たしかに、「ボーナス・トラック」という名称からなにかがおかしい。コンセプトは、こうだ。

ボーナストラックは2020年4月に下北沢に誕生した、みんなで使い、みんなで育てていく新しいスペース、新しい “まち” です。下北沢駅と世田谷代田駅のちょうど中ほど、「下北線路街」のエリアの一つとして産声をあげました。

ボーナストラックには、飲食店や物販店に加えコワーキングスペースやシェアキッチン、広場といった、この場所を訪れる人自身が、この場所のカルチャーを新たに作っていくひとりになるような、そんな仕掛けをたくさん用意しています。

「みんなで育てていく」「新しい"まち"」「この場所に訪れる人自身が、この場所のカルチャーをつくっていくひとりになるような」「仕掛けをたくさん用意して」といった言葉に思わず顔が歪んでしまう。

そもそも「"まち"」を育てているのは「仕掛け」なのでは?と無粋なツッコミをいれたくなってしまうほど、下北沢ボーナス・トラックは、「シンプル」で、「洗練」されていて、「ていねいな暮し」風な空気感が支配する場所だった。

その一角に「日記屋 月日」というお店がある。
ここは古今東西の「日記」の本を集めた書店だ。「アンネの日記」といった古典から、日記を製本した同人誌まで、ありとあらゆる人々の生活の記録を記した本が、所狭しと並べられている。

昔、正岡子規と永井荷風の日記本は読んだな、あと谷崎潤一郎の日記は面白かった、と言いながら店内を見る同行者。筆まめで、よく日記や生活のメモを紙やスマホに残している姿をよく見るからこのお店にかなり興味があるのだろう。

自分はというと、昔から日記を書くのが苦手だった。正確には、書こうとしたけれども、続いたことはない。

小学生のときの夏休みの宿題も、中学生のときに部活で書かされた日誌も、1ヶ月ためては1日で書く、ということを繰り返していた。

いまでも、半年に1回は日記を書こうか悩むときはある。原因は明白だ。



「1日1行でもいいから日記を書こう」と思いたち、書き始める。

するとその日の行動をすべて書こうとしてしまう。1日1行のはずが、5000字の長文な生成される。

次の日。日記を書こうとするが「5000字も書くのか……」と憂鬱な気持ちになる。そして、面倒になって書くのをやめてしまう。

半年後、「1日1行でも……」(以下繰り返し)。

このループをかれこれ6年ほどつづけている。


(余談だが、アララでは『アララ日誌』というメンバーが観たもの読んだもの聴いたものを日記のように記して一週間ごとに企画がかつてあった。しかしながら、まったく更新されずに自然消滅。アララのメンバーであるオケタニは、個人で日記を書いてnoteにあげているらしい)

本題に戻ろう。

自分自身が日記を書けない理由をさらに分解するならば、「1日1行」でもいいのに、長く書きすぎてしまうからだ。

なぜ、長く書きすぎてしまうのか。

それは、そこに書かれなかったことはなかったことになってしまうのではないか、という不安をいだいているからである。


日記はその日に起こったことや、それに伴って感じたことを書き記す。そして後年、それを読み返すことでその出来事や感情を文字を通して思い返すわけだ。

しかしながら、当然その日に起こったことと感じたことをすべて書き記すことはできない。たとえほとんどのことを書き記すことができたとしても、書き記されなかったことは忘れるだろう。

覚えておく、思い返すために記録をするのに、記録をしたことによって忘れさられる出来事がある。忘れ去られたものは「なかったもの」と同義である。

もっと言えば、出来事を記録するということ自体、かなり恣意的な行動である。

たとえば、自分は冒頭に下北沢ボーナス・トラックがいけ好かない、ということについて書いたが、なんだかんだ限定のガチャガチャを(2回も)回してはしゃいだり、コーヒーを買ってくつろいでいて、なんだかんだ「ていねいな暮し」風の雰囲気を楽しんでいたことは書いていない。

いけ好かない、ということを言うために、あえて楽しんでいたことを書かなかったわけである。

これはある意味、記録をすることで自分の感覚を隠蔽しようとしたのである。


昨年、評論家の大塚英志氏が『コロナ禍日記』の書評でこのようなことを書いていたのを思い出す。

コロナの騒動の中、会ったことさえない幾人かの人の動向が気になった。「おたく」と猫を飼っている以外の共通点しかない人がSNSで日を追うごとに鬱っぽくなっていき、馴染みの古本屋店主が休業を余儀なくされて「物欲がなくなった」とつぶやきを発する。押し潰されそうなという比喩でなく、本当に押し潰されていく様を見ていた。

 しかし、同じコロナ禍の日記のようなものでもこの本に登場する人たちの日々の記録は随分違う。何よりコロナ下の自分の立ち位置に正確だ。
きっと、コロナ禍の「日常」や「生活」をこのように理性的に営む人々のことばが集まる「世界」があるのだろう。そこは、自粛という抑圧に耐えかね、混乱し、政治に憤り、暮らしが追い詰められていくぼくのweb上の「知人」たちとの「世界」とは違う「世界」なのだろうと、その「分断」を想う。

この「日記」に限って言えば、安定した生活のなかで、理性的な判断をする人々の「生活の記録」は残り、後世の人にも読まれる。逆に言えば困窮する大塚氏のweb上の友人の苦悩は残らず、読まれることもない。つまり、コロナ禍の困窮や怒りや苦闘は、後世に語り継がれない。これこそが日記による感覚の隠蔽である。

大塚氏は今年『「暮し」のファシズム』という書籍を上梓し、戦時下の暮らしを統制するためのメディアコントロールについて史料を基に分析していたが、そこでも公人の日記は戦時下の空気をコントロールするために用いられていたことがよくわかる。

記されないものは、なかったことにされていく。

だからこそ、日記を書くならばあらゆる感覚を記録しておかなければならない、と追い立てられる。そんなことを思い始めると、日記はどんどん長くなっていき、しまいには書くのが嫌になる。
だから僕は、日記を書けない。

ただその一方で、生半可な気持ちで日記は書けない、とも思うのてある。

(ボブ)

追記 (忘れないために)

「ボーナス・トラック」という言葉は死語になりつつあるように思える。ストリーミング・サービスの普及となにか関係があるのだろうか。
昨年印象に残ったボーナス・トラックを2曲。

「Futsal Shuffle 2020-bonus track」Lil Uzi Vert(『Eternal Awake』収録)


「Dior(bonus)」Pop Smoke(『Shoot For The Stars Aim For The Moon』収録)


(ボブ)

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