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2017年のエドガー・ライトと2021年の『ラストナイト・イン・ソーホー』

「Corneliusを最前列で観ていたら、エドガー・ライトがいた」

そんな話を聞いたのは2017年のフジロックのこと。一緒の宿に泊まっていた大学の先輩が興奮気味に話していたことをよく覚えている。当時のエドガー・ライトは『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ホットファズ-俺たちスーパーポリスメン-』『スコットピルグリムVS.邪悪な元カレ軍団』のように人を喰ったような(邦題のせいもあるが)それでもどこか憎めないB級作品を作る映画監督、といった認識だった。それらの作品における音楽、映画をはじめとしたポップカルチャーの引用はワクワクこそすれど、そこにハマってしまうと現実に戻ってこれないような「危うさ」をどこか感じていたのか、どこか距離のある存在であった。

エドガー・ライトが苗場でCorneliusを観ていた年の秋、『ベイビー・ドライバー』が日本で公開された。公開されてから2週間後に新宿バルト9の最前列で観たときのことは今でも覚えている。冒頭に据えられたジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンの「Bellbotom」のイントロからアウトロまでの5分17秒の間に展開される銀行強盗とカーチェイス。カーラ・トーマスの「B-A-B-Y」によって始まる主人公ベイビーとヒロインのデボラの出会いのシーン。ダムドを冒頭から聴いて強盗を始めたいがために、iPodを巻き戻す仕草。ブラーやクイーンとともに車がぶつかり合うクライマックス。すべての楽曲がこの映画のために作られたのではないか、と錯覚するほどの音と映像の呼応と、プリミティブでロマンティックな快楽を呼び起こすシーンの数々にひっくり返された。『ベイビー・ドライバー』が公開されたのは『ラ・ラ・ランド』『グレイテスト・ショーマン』をはじめとしてミュージカル映画が大ヒットしていた時期だったが、自分にとってはどんなミュージカル映画よりも新しい音楽映画だった。
その時の興奮を拙いながら原稿にしたためたのだが、いま記事を読み返してもかなり興奮していたことが伝わってくる

なぜいままで距離感に感じられたエドガー・ライト作品にここまで熱狂できたのか。それは彼の作品にあったポップカルチャーの引用の「危うさ」がそこから脱臭されていたからだろう。前述の通り、『ベイビー・ドライバー』の各シーンに流れる楽曲はまさに映画のために作られたかのような印象を受ける。実際に楽曲の長さから逆算してシーンが撮られていたこともあり、楽曲の持つ魅力を活かしつつもその背景にある文脈ーー例えばそのアーティストの出自や楽曲の意味ーーを知らなくても楽しめてしまうのである(もちろん背景を知ることでより深みを増す、ということもあるのだが)。つまり『ベイビー・ドライバー』におけるエドガー・ライトは映像と音楽の快楽を追求することによって「メジャーな」作品を作り出した、といえる。
もっとも、ポップカルチャーから文脈を剥ぎ取ることは別の危うさをも孕んでいるのだが。

さて、Corneliusとフジロックがメディアの批判のやり玉に挙げられ、『ベイビー・ドライバー』の主演のアンセル・エルゴードが性的暴行疑惑にかけられるなか、主演を務めた『ウエスト・サイド・ストーリー』の高い評価を得た2021年の末に『ラストナイト・イン・ソーホー』は公開された。この作品はこれまでのエドガー・ライト作品とは異なり、エンターテイメントの暴力性とポップカルチャーから文脈を剥ぎ取ることの残酷さを突きつけてくる。

舞台は現代のイギリス。主人公のエロイーズは60年代のポップカルチャーに憧れる若者だ。オープニングは彼女が新聞で作った服を揺らしながら、レノン・マッカートニーのコンビが手掛けた「愛なき世界」を部屋でひとり踊るところから始まる。憧れの世界に没頭する彼女の部屋の鏡に映るのは、夢に敗れて命を落とした母親だが、彼女はその姿を見ないふりをする。

そして彼女はロンドンのソーホーにあるデザイン専門学校に入学することが決まるも、寮の同級生と馴染めず、60年代からあるアパート屋根裏部屋に住むことになる。赤と青に明滅するネオンに照らされ、レコードをかけながら眠りにつくと、夢の中では60年代のソーホーへタイムスリップし、鏡を見ると歌手を夢見るブロンドの少女サンディになっていた。

夢の中で、夢を叶えようとするサンディ=エロイーズは、次第現実世界でもサンディのように振る舞うようになる。

最初は夢の中の60年代を純粋に楽しむエロイーズだったが、サンディの身に残酷な現実と暴力が突きつけられた瞬間に、エロイーズの精神を激しく蝕みはじめる。

無邪気な憧れと引用は心地よくもある。しかし、もしその時代の現実が自分自身を襲ってくるとしたら? 

エロイーズは夢で見た人々ーーサンディを搾取していた男性たちと傷ついたサンディの幻影に悩まされる。

その幻影は、彼女が60年代に憧れるなかで無視してきた時代のリアルでもある。引用やオマージュを駆使しながら作品を作り上げてきた、エドガー・ライトは突きつける。過去への憧れは歴史を無視しながら行われているのではないか?と。それは僕がエドガー・ライト作品に感じていた「危うさ」の正体でもあった。

陳腐なCGで表現された幻影に追い立てられながら、エロイーズは自らの過ちに気がついていく。それも、かなりわかりやすい形で。

そうした果てに彼女は、ラストシーンで鏡の中を直視する。そこに映るのはサンディと、彼女が見ないものとしてきた母親の幻影だ。

サンディ、あるいはライトは、幻影を真っ直ぐ見据えることを答えとして出したのかもしれない……そんな腑に落ちたような、落ちないような、あまりにもあからさまなラストを観終えて、映画館を出るとあることに気がつく。

あ、ここは『ベイビー・ドライバー』を観たバルト9だった、と。


忘れかけていた2017年と、2021年の新宿が交差する。その後僕は、新宿の街を久々に迷子になった。

(ボブ)



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