![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/24595068/rectangle_large_type_2_3d4dc62f5bc40c846997fd69de5661aa.jpeg?width=1200)
レトリックから 《思いやり》 を学ぶ
![記事内画像.001](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/25116015/picture_pc_dbaa57cb883c500813f163130523a015.jpeg?width=1200)
「初日の出」をご覧になったことはありますか。
カレンダーが振り出しに戻る元日の早朝、暗闇の中から光が立ち昇るそのさまを眺めながら、何とも言えない神聖な気持ちになる。標準的な日本人であれば、誰でも一度くらいは経験したことがあるかと思います。
しかし、ここで改めて考えてみてほしいのです。
本当に、「日」が「昇って」いるのでしょうか?
私たちは、それが事実と異なることを知っています。初等あるいは中等教育の中で誰もが一度は学習したように、動いているのは太陽ではありません。地球です。だから正確に言えば、不動の太陽に対して「地球」が「沈んで」いるのです。
「地球の初沈み」です。
とはいえ、そうした科学的事実は知っていても、大地の表面で暮らす私たちにしてみれば、やっぱり太陽が昇ったり沈んだりするように見えてしまう。この大地というものはちっとも動いている気配がない。
はるか昔からそうだったのでしょう。だからこそ、私たちのこころの中の辞書には「日が昇る/沈む」という言葉は載っているけれど、「大地が昇る/沈む」という言葉は載っていません。
そういうわけだから、「実は《大地が動いている》のではないか?」とうっかり気づいてしまった最初の人間というのは、皆が従う常識と言葉のルールを大きく違反したことになるし、ともすれば、社会の異端者として白い目で見られたこともあったでしょう(史実がそれを物語っている)。
・・・
「レトリック」 とは何なのか
前置きが長くなりましたが、この記事では佐藤信夫による名著『レトリックの記号論』(講談社学術文庫)を読んで学んだこと・考えたことを書いていきます。
タイトルにある「レトリック」とは、一般的には「言葉を巧みに用いて、効果的に表現すること、およびその技術」というような意味でおおよそ理解されています。「言葉のあや」という名前でも知られています。
たとえば文学においては、
堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。
なんていう表現がみられたりします(レトリックの一種で、提喩)。
私たちはその「白いもの」が何であるかを知っています。まさか「小麦粉かな?」などと心配する人はいませんよね。
このように、文学的な表現としてレトリックに遭遇するとき、私たちはそれをすなおに(というか、それがレトリックであることにすら気づかずに)受け入れて、表現されるものを思い浮かべては楽しんだり悲しんだり怖がったりします。
でも、もしも隣を歩いている友人が降り始めた雪に気づいて「白いものが降り始めたな…」なんてつぶやいたら、この野郎、と思うでしょう。思いませんか?私なら思います。すなおに「雪」と言えばいいのに、どうしてわざわざ「白いもの」などという気どった言い方をするのか。豆腐が降ってきたのかと思ったじゃないか。
どうも私たちは、こころのどこかでレトリックに対し、事実を誇張するための大げさな言葉づかいだとか無用な飾り文句という印象も抱いているようです。レトリックは芸術のための贅沢品であって、日常のための実用品ではない、とでも言いましょうか。
事実、日本語のルールブックともいえる国語辞典で「レトリック」を調べると、
③ 実質を伴わない表現上だけの言葉。「巧みな—にごまかされる」
という悪口が、これまた意地悪な用例とともに書かれています。
しかし、この本の著者はそのような見方に対し真っ向から反論します。
レトリックの見落とされた役割
たしかにレトリックは、二千年ほど前にギリシアの地で初めて体系づけられたとき、その位置付けは「説得する表現の技術」および「芸術的な表現の技術」というものでしたから、国語辞典(そして私たち現代人)の悪口もけっして的外れではありません。
が、ここで著者は、レトリックにはもう一つ、見落とされている重要な役割があるといいます。それは、「発見的認識の造形」というものです。
どういうことか?
単に「雪」という本名で呼ぶのでは表現できない、自分の目にうつる情景の「白さ」を、できるだけありのままに、忠実に表現しようとする試みなのです。
あるいは、「動くのは天である」という常識の接着剤によってガチガチに固められた言葉のルールを破ってでも、「いや、《大地が動いている》のだ」という新しい認識を何とか表現しようとする試みなのです。
まとめると、既製品の言葉では言い切ることができない新しい世界の新しい見え方を、言葉のルールを違反しながらでも何とか表現しようとする、そういう創造への挑戦が、レトリックの本質であると著者は述べます。
補足:本来はルール違反であった表現も、時がたち世の中に受け入れられた途端、ルールの中に吸収されてしまいます。たとえば、「足」というものは本来、動物が移動するための器官を指す言葉であったはずが、今では「移動手段(会場までの足はあるかい?)」や「人が訪れること(コロナ禍になってから、客足が途絶えてしまった)」などをも指す言葉として普通に受け入れられています。
《思いやり》 の本当の意味を知る
著者はまた、レトリックにみられる創造的な姿勢こそが、本当の意味での《思いやり》であると説きます。
世の中の常識や、自分という一人ぽっちの人間の経験によって固められてしまった、ものの見え方。そこから思い切って飛び出してみる。別の視点、誰かの立場に立ってみればどんな具合にものが見えるだろうか。そんなことを思い描く創造力であり想像力。
「携帯電話をただの電話機としてではなく、音楽もインターネットもゲームも全部楽しめるプラットフォームとして捉えてみよう」と考えつき、世界を永遠に変えてしまったりんご印のイノベーターたちから、「自粛の取り組みを感染予防の視点だけでなく、経済の視点からも考えねばならない」という馴染みの議論まで。
「その話、もう100回くらい聞いたけど、楽しそうだから黙っておこう」という友のやさしさから、「もともと愛してなどいなかったと告げたら、彼は一体どう感じるかしら」という切ないやさしさまで。
認識的な視点の転換と、心情的な視点の転換。どれも同じ能力を前提としていることは、明らかではないでしょうか。
無限にありうる視点を自由自在に行き来できること。
これこそが、本当の意味で《思いやり》のある人間なのだと気づかされました。
・・・
おわりに
そういえば、コロナ禍が始まった頃、印象的なレトリックに出会ったことを思い出しました。
このコロナ禍により、私たち人類は家に閉じこもることを余儀なくされた。
するとどうだろうか、大気汚染は改善し、スモッグで灰色だった空が青色に変わり、ある街では動物たちが道路を往来し始めた——。
そんな変化を目の当たりにし、どこかの誰かが思わず口にした隠喩(メタファー)。
「私たちが、地球を蝕むウイルスだったのだ」
実はこれ、コロナ禍の始まり頃に海外で盛り上がりを見せていたミーム 、
"Nature is healing, we're the virus."
(自然が癒え始めている。私たちがウイルスだったのだ。)
のことです。
何がネタで冗談なのかは、ぜひ以下のまとめをチェックしてみてください。秀逸なものばかりで、かなり笑えますよ。
ただの冗談ではありますが、実際、地球と人間の付き合い方について考えさせられはしませんか。
・・・
人間とことばの本質について、おそろしく鋭い観察眼を持っていた佐藤信夫。
その彼による、レトリック研究の集大成。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?