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こころを込めて

 創業32年の高級レストラン「このえ」。全予約制の上、あらゆるメディアの訪問を拒み続け、広告も一切なく、Google mapにすら載ってないにもかかわらず、予約は一年先に伸ばしている。上流階級にとってこのえでの食事経験はステータスのようなもの。

 ボックス席、キャンドルの仄かな照明の中、ポーランドの”伯爵”ホルゲは肉汁が滴る最高級の近江牛ステーキにナイフを入れ、口に入れた。脂肪は舌の上で溶け、甘美な肉汁が口内に至福をもたらす……はずだが、ホルゲは反応を示せず、一本500€のフランス産赤ワイン「エスト・エスト」で口を清め、ナイフとフォークを皿の右下に置いた。

「失礼します、ホルゲ様。料理はお口に合いませんでしたか?」

 容姿端正の給仕、堀井が尋ねた。

「ああ、心が感じぬ」

 堀井は内心に苛ついた。心が感じぬ?料理漫画かよ?金持ちだから美食家ぶって抽象かつ建設性のない文句つけやがって。

 シェフ兼店主である伊狩清麿はどんな料理対しても真摯な態度で臨んでいる、真の料理人で人格者だ。ほかの威張るシェフと違って怒鳴るなど一度もなく、スタッフに慕われている。そんなシェフの料理が訳の変わらない批評を受け、堀井は自分のことみたいに憤った

「すみません、もっと具体的に教えていただければ要望に応じて作り直せますが」

「もう十分シンブルに言ったつもりだが?心が無いと」

「あぁ?客様だからなんでも通ると思うなよオヤジ」

 堀井は全身に力が強張った。彼は柔道の黒帯で、稀に現れる厄介客にも対応できる。

 だが次の瞬間、堀井は胸から生えた手と握られている自分の脈動する心臓を見て訝しんだ。

「申し訳ありません。”そちら”のお客様は久しぶりなので」シェフの声。「すぐ調理して参ります」

 手が抜かれ、心臓を抜かれて絶命した堀井が崩れ、血液がカーペットを汚していく。

「そうだ、それが欲しかったのだ」

 ホルゲは初めて笑顔を見せた。

(つづく)

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