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2.5畳ボンビーガールから大逆転した人生ストーリーを大公開【前編】

こんにちは!
日本と韓国で1000万円をかけて
人生変わったあくまちゃん(https://twitter.com/akumachan_biyo)です🐥

コーチとして活動を始めたので、わたしのことを知ってもらうために、
今回は私の生い立ちを綴ろうと思います✍️

知人に「本書けそうだよ」と言われたこともあったので、
波瀾万丈で、ちょっと過激なところもあるかもしれません。

一目でわかるようにわたしの人生チャートをつくってみました。



正直、自分のことをここまで打ち明けることに勇気がいりました。


わたしは頭のいい人間ではありません。
ただ、不器用なわたしだからこそ、伝えられることがあればと思いました。


幼少期から愛情に飢えていて、「早く人生終わらないかな」ってずっと思っていたわたしでも、ここまで人生を変えることができたのは事実です。


子供の頃、大人たちの言う「頑張っていれば、いつか幸せになれるよ」という無責任な言葉が大嫌いでした。

だから、わたしは「いつか幸せになれるよ」って言葉は人に言えません。
でも、
「わたしでもできたから、あなたにもできる」

この言葉は胸を張って言えます。

少しでもヒントや勇気づけるものが見つかれば何よりです。


ド田舎生まれ・人と違うことでいじめに遭い、早々に「生きてる価値」がわからない

わたしは山梨県のど田舎で生まれ育ちました。
小学校のクラスは1つだけ。わたしのクラスは13人いて、全校生徒は50人くらいでした。ちなみに、もう小学校も中学校も母校は廃校となってしまいました。

そんな中、フィリピンハーフというのは私と1個下の弟だけでした。

「肌の色が違う」「親の顔が日本人じゃない」「食事が違う」最初は、そんなことでいじめに遭っていました。

家庭科の授業で、ゆで卵をつくる実習のとき、1つだけ黒い卵がありました。
それはわたしのとされ、みんなに笑われました。

暗いところに閉じ込められたり、私も弟もそのときは本当に辛かったです。

思春期を迎えると、肌荒れがひどく、ニキビを笑われ、家が貧困だったのでテレビもない生活で芸能人とかまったく知らず、みんなの話についていけないから、どんどん孤立していきました。

実家は、スナックを営んでいたので帰っても誰もいません。家族みんなで食事をしたのは片手で数えられるの回数くらいです。

「なんで生きてるんだろ?」
物心ついたときからずっとそんな孤独感を感じていました。

ランチは70円のコッペパンと100円のブラック缶コーヒー


父親の借金が多く、カレンダーに返済日がぎっしりと書かれていました。
母と父はいつも言い争っていて、時々母はすごくヒステリックを起こし、私と弟のモノが外に捨てられていたり、帰ってこない日もありました。

「お金がない」

我が家の口癖でした。

ランチは70円のコッペパンに、食欲をなくすために自販機の100円のブラック缶コーヒーを飲んで凌いでいました。

23歳年上の人と大恋愛・母親の不倫


中学3年生のとき、23歳年上の人に恋をしました。
それは学校の先生でした。

今だったら大問題だったと思います。
ですが、孤独感が強かった当時の私には、その恋が唯一生きる楽しみでした。

先生と長く過ごしたいという純粋な気持ちから、関係は発展しました。
ですが、母に一緒にデートに行ったチケットをカバンの中から見つけられ、わたしの携帯を盗み見されたことで、関係が発覚してしまい破局しました。

毎日泣いていました。

そんな中、母が不倫していることも気づいていました。

ある時、母親が今までに見たことのない笑顔で帰ってきました。

「子どもができたの」
そう言った母親の嬉しそうな笑顔を今でも忘れられません。

父とはまったく会話もしてなければ、父は近くで別居をしている状態でしたので、子どもには理解できない出来事が目の前で起きているのだと、そう思うしかありませんでした。

泣き叫ぶ赤ん坊 「わたしはママじゃない」


13個離れた弟。
生まれてしばらくすると、母はほとんど帰ってこなくなってしまいました。

「ママ、ママ」と泣き叫ぶ赤ん坊。
繋がらない母の電話。
「わたしはママじゃない」と泣き声に埋もれるわたしの啜り声。

暗闇が不安を煽って、この頃から私の中に「見捨てられ不安」が心を蝕んでいったと思います。

それでも、この頃出会った心理学や哲学の本でなんとか心を持ち堪えました。

こんな状態でも、その時出会った本に書かれていた
「大丈夫。わたしの人生、うまくいっている」
という言葉をつぶやいていました。


最も美しい復讐は、幸せになること


それでも、やっぱりメンタルは疲弊していました。

そんな時、ある男性に出会いました。
見た目に自信がないわたしに対して、彼は好意的に接してきました。

そして体の関係を持ちました。
その最中に、彼の友達が部屋に入ってきました。

パニックになるも、彼は止めず、
わたしは見せしめにされたことを察しました。

そして、行為が終わったときに「可愛い子紹介してよ」と言われました。

あまりにも屈辱的で、自分が、彼に対して好意を抱いてしまったこと、身体を許してしまったこと、すべてが恥ずかしくなり消えていなくなりたいと思いました。

ちゃんと制服も着れてない状態で過呼吸しながら帰って、
バス停の前でずっと泣いてたのを今でも覚えています。

もう涙が出ないくらい泣き疲れた時に、
あいつより幸せになってやる」と決めました。

そのために、この田舎を出て上京することを決意した時でした。

自分で学費を稼いで、高校に通う


高校受験に合格した時、家族や親戚は誰一人喜びませんでした。

「女の子なんだから、高校なんて行かなくて大丈夫。家はお金がないんだから、働いて」
と言われ、周りの家族との違いにまた苦しみました。

それでも、わたしは高校くらい出ておかないと将来自立する時に苦労すると思い、アルバイトして自分で学費を稼ぐことを条件に高校に通いました。

アルバイトはコンビニ。
休まず、毎日働きました。

夜ご飯は、コンビニでもらった賞味期限切れのお弁当や揚げ物。

昼間は節約のためにパン1個とかで過ごしていたので、
ある時、夜勤後あまりにもお腹が空きすぎて
親が迎えにくるまでに暗い駐車場の裏で、ハイエナのように賞味期限切れのコンビニご飯をむさぼっていました。

すると、ちょうど夜勤中の年配の女性がゴミ捨てにきて、コンビニご飯をむさぼっている姿を見られました。

「お腹すいてたんだね」と言われましたが、
自分が貧乏生活であることを目の当たりされた、あの時の羞恥心は今でも鮮明に思い出されます。


余談ですが、何かのきっかけでダンススクールを知って、一度興味本位で行ったことがあります。

同い年の子達がみんなキラキラ輝いていて、
鏡の前で表情豊かに自分を表現していて、楽しそうだった。
アイドルのように可愛い子が「一緒にやろうよ!」と声かけてくれました。

見学後に渡されたパンフレットで、
まずはスクール費用が書かれているページを開いて
「普通の家庭だったら、わたしもあの子たちと同じようになれたかな」
そんな風に思って、後日入会のお断りの連絡をしました。


つづき


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