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[データ]言語聴覚士の読書~FACTFULNESS〜

病院ST(言語聴覚士)が読んだ本を咀嚼し嚥下する。リハビリセラピスト×ビジネス、時々短歌、自己啓発本の読書感想文。

[回復は奇跡じゃなくて本人の努力と支えるEBMです]

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はじめに[私とドラマチック]

私はどちらかといえば現実主義で成果主義だ。こそこそTwitterで呟いているのも、仕事の姿勢や社会の見方について、同僚や友だちと本音で話すと共感を得られにくく呆れられてしまうことが想像できるからである。それでも私は社会問題という強烈なドラマチックの渦にのまれてしまうことが多々ある。
小学生の総合の授業では、「共生」というテーマで「障害者について学ぶ」ことが課題であった。自分たちと違う人々の生活について学ぶ、知識を付加して差別を無くそうという試みだったのだろう。しかし、私を含めた多くの小学生たちは、その違いをかわいそうと哀れみ、その触れ合いをドラマチックな思い出のワンシーンとしか処理していなかったように思う。
高校生の時に思い出すのは受験勉強の頃だ。勉強と同時に小論文の練習にも取り組んでいた。ある日の小論文の課題は「少子高齢化について」だった。受験勉強に追われ嫌気が差していた私は、その大半を「学歴社会が少子化を招いている」というたまに見かける視野の狭いTwitter民にも劣らない偏狭な小論文を書いたのだが、担当教諭が突っ返さず諭してくれたことに今更ながら感謝したい。
20年近く前の授業で障害者について学ぶ機会があるこの国で、差別や偏見が無くなっているとはいえないし、医療職となった今、その共生が実現できているとは思えない。「違う」ことへ敏感で「人に迷惑をかけてはいけない」という呪いのような美意識を持ち続ける国民性を悲観してしまうこともある。また10年以上前には大学受験のテーマとして挙がるトレンド社会問題だった少子高齢化はさらに進み、対策も十分だとは思えない。子どもが産まれてからはなお国の行く末を嘆く。世界中に問題は溢れている、なんて生きにくい時代なんだって一丁前のドラマチックを身につけて。


[FACTFULNESS ハンス・ロスリング他 著]

本著を一言でいうと副題の通り、思い込みを捨てデータを基に世界を正しく見る習慣を身につけよ、ということだ。著者はスウェーデンの医師であり公衆衛生学者、そして特技は剣飲みという異色者で、その特技が本著でもちょこちょこ挟まれる。嘔吐反射が鈍麻していること、頭頸部を完全に進展させることで剣飲みが可能になることに気づくエピソードはSTとして笑ってしまう。そんな一見おもしろすぎるドクターは、本著の出版の前にこの世を去った。あらゆる仕事をキャンセルし、人生の最期にこの本を書き上げることに費やした、彼の医者、公衆衛生学者としての奮闘とそのメッセージが読者に迫ってくる。息子であるオーラロスリング氏は最後にこう綴っている。

ー父の中にはいつも、相反する2つの思いがあった。世界を心配する気持ちと、あふれるほどの人生の喜びだ。


エピソードから繋がる思い込みを生む10の本能とその対処法がこの本の中心として紹介される。、分断本能、ネガティブ本能、直線本能、恐怖本能、過大視本能、パターン化本能、宿命本能、単純化本能、犯人探し本能、焦り本能ーー共通する対処法は、すぐに答えを出さずデータを正しく見よ、ということだ。

考察[思い込みに打ち勝つ]


これら思い込みを生む本能を私は臨床と照らし合わせて読んでいた。
分断本能:分断されているという思い込み。本著ではかつて“発展途上国“と言われた国の人々と“先進国“に住む者は、大きな溝があり先進国の者は彼らと自分たちは違う、分断されていると思い込んでいるということだった。現在は本当は“中間国“が多くあって分断などされていないのだ。リハビリの対象者は、疾患を抱えなにかしらの不自由な障害を有している。セラピストとリハビリ対象者とそれぞれカテゴライズされる。こう分断されていると、我々は思いがちなのではないか。皆、同じく自分らしい尊厳ある生活を送る権利を有する人間であって、だからこそ離床を進め、行きたい場所に行き、食べたいものを食べる。そういった要求を当然に持ち、世界と繋がっている。分断を無くした視線から目標設定し介入を始めなければならない。

パターン化本能:一つの例がすべてにあてはまるという思い込み。
これもいかにもセラピストが陥りがちだ。経験した症例をパターン化し、別の対象者にも当てはめてしまう。もちろん成功体験はどんどん活かすべきだが、思い込みの罠に嵌らないように注意しなければいけない。「嚥下障害」「喉頭挙上不全」に一様に「シャキア法」を行なってはいないか。「左脳梗塞、ブローカ失語」「発語失行・喚語困難」のため「呼称訓練」と、あまりに一様な症例報告書を見受けることがある。対象者のパーソナリティも生活環境も残存能力も考慮した問題点抽出・治療法の立案を常に意識したい。

考察[数値化っておもしろい]


思い込みから脱却するには正しいデータと対峙しなければならない。データは紛れもない事実であるなら、その対峙で自分の思い込みに気づくことができる。データだけで対象者を理解ができるのかという反論もあるだろう。もちろん本著でも、数字が全てではないことは述べられている。しかし、確固たる仮説検証は数字で示さなければ、問題点の同定も、それに対する治療戦略も“主観“という思い込みの可能性を排除できない。リハビリテーションというのはいかにもドラマチックに演出されがちだが、内実は患者の努力とそれを支えるEBMの地道な成果なのだ。
回復期リハビリテーションではアウトカム評価が必須である。ADLの変化の裏には、実にさまざまな成果の積み重ねがある。歩行の自立にあたっては、連続歩行距離、速度、転倒につながる崩れの回数、食形態の改善にあたっては、ムセの回数、食事時間、喉頭挙上距離。それらを支える筋力や関節可動域。セラピストの誰もが知識としてそれを把持し、評価する。しかし、毎回の臨床の場でそれを意識し、症例報告に改善データを提示できるセラピストはどれくらいいるのだろう。既存の検査結果だけではない変化を追って、改善の背景を裏付ける。そういった臨床の積み重ねがリハビリテーションの成果となる。わたしは一介のセラピストでしかない。研究室であらゆる変数を統制することも、多大なデータを集めることも難しい。だからこそ、さまざまな学会の抄録を拝見してただ臨床に反映できるか考える。健常成人のデータを目の前の患者にいかに応用できるか考える。それが、未来の、そして世界のリハビリテーション医療に繋がっていくと信じているからだ。そう考えると、目の前のひとつひとつの臨床が壮大で、有意義で、なんておもしろい仕事なんだと“思い込める“のだから。

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