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査読者として

学会誌には、「査読」がある。査読というのは、匿名で投稿された論文を、審査するシステムである。研究者は、自分の研究成果をできるだけ多くの人に広めたいので、学会誌に投稿する。そして、学会誌に掲載されると、まあ、業績として認められる。かな?

で、僕も時々査読される。けど、今日は査読をする方の話をしましょう。

年に数回、査読の依頼が来る。現在は、ある学会の査読委員なので、その学会の査読は定期的にやってくる。それ以外の学会で外部査読委員として査読することもある。

で、査読では、何を審査するか。

基本的には、「論文としての体裁が整っているか」だと思う。
研究テーマの設定は適切か? 先行研究の把握は適切か? 先行研究の批判は適切か? 問題を解決するための分析は妥当か? 考察は、無理や飛躍のないものか? 

基本的に、僕はこれだけのことがクリアできていれば「採用」と判定している。

これ以上のことは、その論文が掲載されてから、他の読者によって審査されることだと思う。

どんな論文にも瑕疵はある。そのすべてを完璧にするまで、掲載しないという審査をすれば、論文は永久に完成しない。論文とはそれくらい、不完全なものである。不完全だからこそ、次がある。

査読をし始めた頃は、過度に厳しく審査していたかもしれないと思うことがある。自分が「中堅」になってきて、若い、新しく査読に入った人の査読コメントを見ていると、「それは、読者が判断するようなコメントでは?」と思うことがある。

【ここから追記】
この文章を書いていて、そういえば実践女子大学の福嶋健伸先生が、おもしろい論文を書いておられたのを思い出した。以下にリンクを貼っておくので読んでいただきたいが、最初の査読で「不採用」とした審査員を、2度目の査読から外してほしいというものである。これは何もわがままなお願いではなく、至極的を射た、説得力のある主張だと思う。そこで、福嶋氏は、「当該論文の良し悪しは、読者が判断する」という文言を使って、ここで僕が書いていることを、もうずいぶん前に喝破しておられる。
その他にもいろいろとおもしろいことを書いておられるのでご一読をお薦めする。

福嶋健伸(2014)「日本語文法学会誌『日本語文法』の 査読システムの改善をお願いする ―「学界水準が弱者を守る」という思想―」『實踐國文學』85: 21-56.

【追記ここまで】

一言で言えば、査読は、落とすためにするのではなく、なんとか掲載を目指して、この点をより考察してほしいというお手伝いをするものだと思っている。

たくさんの論文が掲載されて、たくさん批判を受けて、でも、たくさん掲載してもらえる学会誌なんだということで、たくさん投稿があって、そうやって学界が活発化するお手伝いをするのが査読者である。

というような気分で、査読をしているのだ。

今日の写真は見事な桔梗ですね。ちなみに、僕も家のベランダで桔梗を育てています。僕の誕生日の花なのです。今年は頑張って咲いてくれた気がします。もう20年くらい育てています。



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