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記事一覧
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その1:無明住地煩悩について】
無明とは、迷いのことを指す言葉で、住地とはそこにとどまるという意味です。
仏法の修行には五十二の位がありますが、その中で、物事や自分の行いに心が止まる所を住地を言います。「住」とはとどまるということの意味を持ち、「とどまる」とは何事につけてもその事に心を留めたままの状態を言い表します。
貴殿(柳生宗矩)の兵法に合わせて言えば、向こうから斬りかかられた太刀を一目見てそのままそこに合わせ
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その2:諸佛不動智について】
不動と言っても、石や木のようにじっと動かないという意味ではありません。向こうへも左へも右へも、十方八方へ心が動きやすいように動きながら、卒度もどの物事にもとどまらない心のことを、不動智と言います。
不動明王というのは、右の手に縄を持ち、歯を食いしばり、目を怒らし、仏法を妨げようとする悪魔を降伏させようと突っ立っておられる姿で現されますが、あの姿が不動明王そのものを表しているわけではありません
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その3:理之修行事之修行】
理の修行と事の修行について。
理とは、これまで申し上げてきた通り、行き着くところへ行き着けば何にも心がとらわれない、ただ一つの心の捨て方のことです。しかしながら、いくら無心になるべく努力しても事の修行を行わなければ、道理ばかりが頭で先行して、体も手も意のままに動かすことは出来ません。
事の修行とは、貴殿(柳生宗矩)の兵法の場合、身構えの五箇条や打ちかかり方の技など、さまざまな習い事のことです
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その4:間不容髪】
間髪入れずという事について。
貴殿(柳生宗矩)の兵法に例えて申し上げましょう。間とは、ものを二つ重ねあわせた間には、髪毛一筋も入らないという意味です。
たとえば、手をはたと打つとき、そのまま はっし と声が出るようなものです。手を打つ時に、髪一筋も入る隙間もなく声が出ること。手を打ったときに考えて、遅れて声を出すのではなく、打つとそのまま音が出ることです。
人が切りかかってきた太刀に心
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その5:石火之機】
石火之機ということについて。
これも、先にお伝えしたことと同じ心持ちのことです。
石をハタと打ち付けるやいなや、火花が散ります。打つとそのまま出る火には、どんな間も隙間もありません。これも、心がとどまるような間がないということを言い表しています。
しかし、早ければよいというわけではありません。心が物にとどまるような間がないという事を特に言っておきたいのです。心がとどまれば、自分の心を相手
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その6:心の置所】
自分の心をどこに置けばよいのか。
相手の体の動きに心を置くと、相手の体の動きに心を奪われてしまいます。相手の太刀に心を置けば、相手の太刀に心を取られるのと同じです。
相手を斬ろうとすることばかり考えていると、相手を斬ろうと思うそのことに心を奪われてしまう。自分の太刀に心を置けば、自分の太刀に心を取られてしまう。斬られまいとすることばかりにこだわると、斬られまいとすることに心を奪われる。相手の
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その7:本心妄心】
本心と妄心について。
本心というのは、一箇所に心がとどまらず、全身全体に伸び広がっている心のことです。
妄心は、何かに思い詰め、心が一箇所に固まり集まると、妄心と言われるものになるのです。
本心が失われてしまうと、必要な様々なことを行えなくなってしまうので、これを失わないようにすることが最も大切です。
たとえば、本心は水のように一箇所にとどまらず、妄心は氷のように固まっています。氷で
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その8:有心の心、無心の心】
有心の心と無心の心ということについて。
有心の心というものは、妄心と同じ事です。有心とは、あるこころ と読む文字で、何事においても何か一方に思いつめていることです。
心に思うことがあって、あれこれ考えたり判断に迷ったりするような思いが生じることを、有心の心と言うのです。
無心の心というものは、本心と同じ意味のもので、何かに偏ったり固まったりすることなく、あれこれと考えたり判断に迷ったり
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その9:水上に胡蘆子を打ち捻着すれば即ち轉ず】
胡蘆子(ころす、ユウガオまたはヒョウタンの別名)を捻着するとは、手で胡蘆子を押すということです。
ヒョウタンを水に浮かべて手で押そうとすると、ひょいと向きを変えて動き、何をどうしても一箇所にとどまりません。
修行を積んで道に到達した人の心も、このようにいっときも何事かに心がとどまりません。水に浮かんだヒョウタンを押すようなものです。
水上打2胡蘆子1捻着即轉
胡蘆子を捻
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その10:應無所住而生其心】
應無所住而生其心。
この言葉を読み下すと、おうむしょじゅうじゅうごしん(金剛般若経の一節)となります。
金剛般若経
「是故須菩提
諸菩薩摩訶薩応如是生浄心
不應住色生心
不應住声香味触法生心
應無所住而生其心」
「是故に須菩提(しゅぼだい)よ、
諸々の菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)は應(まさ)にかくの如く清浄の心を生ずべし。
まさに色に住して心を生ずべからず。
まさに声香
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その11:求放心】
求放心とは、孟子の言葉で、いったん放たれた心を再び自分の身のうちへ引き戻すという、心の動きのことです。(「沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その6」参照)
たとえば、犬や猫、にわとりなどがどこかへ行ってしまうと、わたしたちはそれらを元の場所に戻そうと、あちこち探し求めることでしょう。それと同じように、本来、正しい所業を行なうための心が、悪行や卑しい行為へと逃げて行くようなことを何としても引き止め、元
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その12:急水上打毬子念々不停留】
急水上打毬子念々不停留ということについて。
これは、急流となって流れている川の上に手毬を投げ込めば、波に乗って動きまわり、ぱっぱっと一箇所にはとどまらないことを言い表した言葉です。
12 急水上打2毬子1念々不2停留1
と申す事の候。急にたぎって流るる水の上へ手毬を投ぜば、浪にのつてぱつ/\と止まらぬ事を申す義なり。
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その13:前後際断】
前後際断ということについて。
その前の心持ちを捨てることなく、また、今の心持ちをその後へ残すことは、良いことではありません。
前と今との間を、バッサリと切って捨ててしまいなさいということを意味した言葉です。
これは、前後の際(きわ)を切って放てという意味です。心を今にも後にもとどめてはなりません。
前後際断
と申す事の候。前の心をすてず、又今の心を跡へ残すが悪敷候なり。