【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その4:間不容髪】
間髪入れずという事について。
貴殿(柳生宗矩)の兵法に例えて申し上げましょう。間とは、ものを二つ重ねあわせた間には、髪毛一筋も入らないという意味です。
たとえば、手をはたと打つとき、そのまま はっし と声が出るようなものです。手を打つ時に、髪一筋も入る隙間もなく声が出ること。手を打ったときに考えて、遅れて声を出すのではなく、打つとそのまま音が出ることです。
人が切りかかってきた太刀に心がとどまってしまえば、間が出来てしまいます。その間に、自分の動きが止まってしまうのです。相手が打つ太刀と自分の動きとの間へ、髪の毛一筋ほども入る隙がなければ、相手の太刀は自分の太刀と同じように扱うことができるでしょう。
前の問答でも同じことです。仏法では、こうした、物に心が残るということを嫌います。ゆえに、とどまることを煩悩と申すのです。流れの速い川へ玉を流すと、どっと流れて少しも心がとどまることのない様を尊びます。
間不容髪
と申す事の候。
貴殿の兵法にたとへて可レ申候。間とは物を二つかさね合ふたる間へは、髪筋も入らぬと申す義にて候。
たとへば手をはたと打つに、其儘はつしと声が出で候。打つ手の間へ髪筋の入程の間もなく声が出で候。手を打って後に声が思案して間を置いて出で申すにては無く候。打つと其儘音が出で候。
人の打ち申したる太刀に心が止り候えば、間が出来候。其間に手前の働が抜け候。向ふの打つ太刀と我働との間へは、髪筋も入らず候程ならば、人の太刀は我太刀たるべく候。
禅の問答には、此心ある事にて候。佛法にては、此止りて物に心の残ることを嫌ひ申し候。故に止るを煩悩と申し候。たてきつたる早川へも玉を流す様に乗って、どつと流れて少しも止る心なきを尊び候。