北畠親房、ええこと言うわ~
岩波文庫 岩佐 正 校注
北畠親房 著
神皇正統記 102ページから104ページ で、ええこと言うわーって思ったので以下意訳。嵯峨天皇がいかにイケてる天皇だったか!ということを表現するくだりです。まとめとして嵯峨天皇の素晴らしさに帰着するのですが、そこに至る素晴らしい為政者とはいかなるものか、また国民の民度を成熟させることがいかに重要かということが述べられており、現代にも通じる重要な視野・視点となっています。
と同時に、700年前の時点ですでに古代に比べて物事に対する見識が低下してきていることを親房が嘆いているのも面白いです!
弘仁の時代から真言宗・天台宗がめっちゃ盛り上がったことを書くのに併せて、日本にあるその他宗派が伝わってきた経緯を書いてみた。書いたことには、まぁかなり間違った点もあるやもしれん。
とはいえ、何が言いたかったかと言うと、
為政者としては、どの宗派であれ大要を理解しつつ特定の宗派を切り捨てないということこそ、国の災いを防ぐために肝要だということ。
菩薩や大士と尊称されるような人が仕切っている宗派もあるし、日本古来の神々がバックアップしている教えもあるが、
ある宗派の教えをしっかりと学ぼうという志のある人が、他の宗派の教えを馬鹿にしたり軽くみたりするというのは、大きな間違い。
人間なんて人それぞれ、理解力も感じ方も好みも異なっているんだから、人としての教えの大切な点の伝え方も無限にあると思ったほうがいい。
それなのに、自分の信じる宗派の教えすらまだ完全に理解できたわけでもない段階で、まったく知らない他の宗派の教えを馬鹿にするなんて身の程知らずも甚だしい。
自分はこの教えを信じて学びを深めるけれども、他の人はまた別の教えを習得することを志すということを相互にリスペクトすれば、お互いに切磋琢磨できて得るところも多いはず。
こういった学ぶもの同士が巡り合うことは、この人生だけの偶然ではなく他生も通じた極めて有難い縁なのだ。
まして、国の代表・為政者であれば、様々な教えを狭い見識で切り捨てず、その時々で必要な学びを活用することを心掛けて、国民にメリットが広く及ぶことをこそ考えるべきだ。
これは仏教に限らず、儒教と道教もそうだし、それ以外の様々な分野を深く極めた道もそう。それどころか、高尚とされる学問・教えだけでなく、一般的に卑しい・陳腐とされるような芸や技も含めて、必要に応じて存分に取り上げて活用する懐の大きさこそ、素晴らしい時代を創るのだ。
基本的に男性はちゃんと稼いで自分自身が飯を食っていくと共に、家族にも与えて飢えないように責任を持ち、女性は女性で糸を紡いで衣服を織り、自らが着るだけでなく家族にも着せて暖かく過ごせるようにするものだ。こういったことは一見取るに足らないことのように扱われがちだが、これこそ人間として生きていく上での根本なのだ。
それぞれの活躍の場は、どんなタイミングでどんな機会に出会うかといった縁の流れや、どんな国や環境に生まれるかといったことによって異なるのだ。上記の基本的な生活以外にも、ビジネスに従事して経済を回す者もいれば、職人として技術を磨き発揮することを好む者もいるし、官僚となって社会に貢献することを志す者もいる。これを四民というのだ。
官僚にも文武の二つの道がある。内政でより良い方法論を議論し進めていくのは文士の道で、この領域に優れていれば大臣の責任を果たせる。一方、外敵と戦って国益に資するのは武人の仕事だ。この領域で優れていれば将軍の責任を果たせる。だから、文武二つはどちらも大切で、一方をなくすものではない。「世の中が乱れている外敵の多い時期は、武の優先順位を文より高め、世の中が平和で安定している時は文の優先順位を武より高めるべき」と昔から言うではないか。
このように、為政者は様々な教えや方法を適宜活用して、国民の心配事を解消し、色んな立場の人が分断して争うことがないようにすることを根本に据えないといけない。
国民の税や責務を重くして、為政者自身は思い通りに好き勝手に振舞うのは国が乱れるもとである。
我が国は、天皇の血筋が代わることはなかったけれども、政治が乱れた時にはその天皇の御代は長く続かなかったし、誰にバトンタッチすべきかも必ずしも嫡子に限らなかった例もたびたびある。ましてや、行政に携わる臣下においてその職を相伝することに固執するなんてのはもってのほかである。
そもそも、国民を導く上で、諸道・諸芸みな要となるものである。中国の古い時代には詩・書・礼・楽が国を安定させる4つの基本としていた。
日本においては上記の4つを学問として明確には定めていないけれども、中国の史書・詩文を学ぶ紀伝、四書五経などを学ぶ明経、律令を学ぶ明法の三つに詩・書・礼について造詣を深めることこそ重要としてきた。さらに上記三つに数学を加えて四道と言うのである。
上記四つについては、どの時代でも専門の職が置かれてきたことであるから詳細には述べない。
そして、医学と天文・暦・気象・地学等を含めた陰陽道の2つはまたこれも国の運営に重要なものだ。
鐘や琴、笛などで奏す音楽は、詩・書・礼と同様に四学の一つであり、そもそもは国を安定させる根本となるとされていたものである。
現在は、特に必要なものではない楽しむためだけの芸能のように軽く思われているのが残念なことである。
「しきたりや慣習を変化させる上で、楽より良いものはない」と古来から言う。音楽は、一つの音から始まり複雑にメロディー・リズムが変化するもので、安定と転換の機微や盛り上がりと収束の妙を体得できる方法と考えられるのだ。また、詩を詠ずるノリも最近の人が好むのは、詩本来の重要なポイントとは異なるようになってきている。とはいえ、心に湧いた感情・感覚がさまざまな言葉の表現となり、昔の感覚とは異なってきたとは言え、まだまだ人の心を震わせる方法であることは変わらない。
この音楽や詩に多くの人が触れれば、偏ったものの見方やよこしまな悪い気持ちを静める効果を生む。
つまりどれも、人の心情の根っこを明らかに、また自覚させ、人としてまっとうな道に立ち返る方法であるはずだ。
輪扁が斉の桓公に対して、輪を削ることによって「削りの絶妙な加減は言葉では存分に伝えられないように、実践なくして文字だけでは体得しきれないものがある」と教えたように、また、一介の弓工が弓の技術に自信を持っていた唐の太宗に対して、「とはいえあなたは弓の良し悪しすらわかっていない」ことを悟らせたという故事もあるように、小さなことから気づきを得るということがあるのだ。極論、囲碁を打つといった遊びでさえ、自分の驕りや不明に気づき軽々しく反応的に動いてしまうことを防ぐ方法となるのだ。
ただし、こういった本質的なことに気づいていなくても、一芸は深めた方が良い。孔子も「ただただうまいもん食ってだらだらして、一日中感情や感覚を動かすような瞬間がないような生活をするくらいなら、ギャンブルでもした方が良い」なんて言っているぐらいだ。
ましてギャンブルなんてものでなく、一つの道、一つの芸に携わっている人が、その本質を明らかにするために探究する気持ち、それがよい結果を生む理論・理屈を悟りたいという志を持てば、それがこの世を平和・安定させる要となり、迷いがなく精進する方法ともなるだろう。
誠心誠意つとめ、五大・五行といった視点で、様々な要素が複雑に絡んで変化し続ける関係性を自らも理解し、他の人にも理解させることは、どんな領域のことでもその根底にある理は共通するものがあるのだ。
さて、この嵯峨天皇、顕教・密教の両方を大切にし帰依されただけでなく、儒学にも精通し、文章表現力も巧みで、文字も美しい文字を書かれた。御所の東門の扁額も天皇自らが揮毫されたものである。(それくらい素晴らしい天皇だったんだよー)