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やっと見つけた・グレイス・ペイリー(#102)

言葉と気持ちの一致がだんだんシャープになってきてる。
シャープになって始めて気づく。今まで、気持ちを表す言葉を便宜的に使っていたんだと。言葉に「とりあえず」という霧がかかって・もやっと・ぼわっと・ふわっと・していたのだ。

それはそれでいいと思う。言葉がふわっとしている限りは暴力として働かないからだ。

でも、言葉とその言葉に乗る気持ちがピタッとシャープに一致すると、とても気持ちがいい。この言葉と出会うために私は生きてきたのではないかとさえ思えてくる。

たとえ、遠い昔のことでも気持ちと言葉がぴったりしたときの記憶は鮮明だ。折につけてその言葉と言葉がつむぐ物語を思い出す。だが鮮明じゃないこともある。物語が書かれた本と著者の名前が思い出せない。もやもや靄もや。

私が覚えていたのは「図書館に本を長いこと返さない女性」だ。「返そうと思えば返せるのだ。私はそういう人になるのだ」と女性は言う。主人公の女性の・このどうでもいいような返本に対する気持ちのうだうだが当時の私の心に刺さった。

やろうと思えばいつだってできることを、私はしない。そう言う時に返本しない彼女を思い出す。私と彼女は一緒だと思う。私と彼女はその呪いのような「できるのに・しない」輪っかから外に一歩ふみ出せるのだろうか。

それだけをずーっと覚えていて、あの本はなんだっただろうと考えつづけていた。そして、見つけた。

グレイス・ペイリー著・村上春樹訳「最後の瞬間のすごく大きな変化 」(1999年)短編集の最初の話「必要な物(Wants)」。

短編の最後はこんなふうに終わる。
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そうだ!今日こそこの二冊の本を図書館に返しに行こう、と私は思ったのだ。そうですとも、いくら私だって ー 愛想の良いことで知られているこの私だって ー 誰かや何かにこづかれたり値踏みされたりしたときには、それなりに適切な行動に移ることくらいできるんだから。
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改めて読むと、変な短編だな〜。

高橋源一郎が言ってる。
「読めて楽しいけども、でも読んだ瞬間に『この言葉はおかしい』これは日本語ではない、という小説でなければダメだと思っていました。違和感が解放感につながる、と」

え?なんだって?何度か読み返して・言ってることがやっと理解できた。確かに、違和感は「ありきたりの型」から小説を解放する予感なのかもしれない。そしてその予感は小説をもっと自由な形へと後押しする力になる。

グレイス・ペイリーの短編集を読んだときにその違和感を私は感じた。つらつら・するする読める。でも違和感が残る。後味はスッキリ。なんじゃこりゃ。

村上春樹はとてもよく翻訳している。あの英文をこんなふうに日本語にしたんだ。驚く。驚ける私に驚いている。年取るのも悪くない。

「年取って賢くなった」とあなたが思うことはなんだろう。あなたの想像力が私の武器。今日も読んでくれてありがとう。

えんぴつ画・MUJI B5 ノートブック


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