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洗濯機の出現と同じか(#104)

三島由紀夫著「金閣寺」をゆっくり読み進めている。半分くらいまできた。毎日は読めない。この手の文章は読める日と読めない日がある。今日は読めると思って開いても、ぜんぜん頭に心に入ってこない時もある。とにかく時間がかかる。えんぴつで線引いたり・言葉に丸したりして読まないことには、自分がどこを読んでるのか分からずぼんやりする。そんな中で、ハッと息をのむような美しい描写にぶつかる。例えばこれ。

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それにしても、音楽の美とはなんと不思議なものだ!吹奏者が成就するその短い美は、一定の時間を純粋な持続に変え、確実に繰り返されず、蜉蝣(かげろう)のような短命の生物をさながら、生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものはなく、同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮蔑して見える美もなかった。
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ChatGPT、上の文章を現代の言葉で書き直してくれ。

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それにしても、音楽の美しさって本当に不思議だ。演奏者が生み出すその一瞬の美しさは、時間を純粋な流れに変え、二度と同じ形では現れない。まるではかない命の象徴のようでありながら、生命そのものを完全に抽象化し、創り出している。音楽ほど生命に似たものはないけれど、同じ美しさを持ちながらも、金閣ほど生命から遠ざかり、まるで生を軽視しているかのように見える美も他にはなかった。
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主人公が音楽に感じる美と金閣寺に感じる美が正反対であることがはっきりわかる。音楽は生まれた次の瞬間に消えゆく美しさだ。それは短く終える生命に似ている。ナマモノだ。いっぽう金閣寺の美は永遠にそこに存続するふてぶてしさにも似た性質のものだ。そういうのを美だと思っている主人公の見かたは狂っているとも思える。その狂い具合に私はついていけなくなる。あまりにもねじれて込み入った心情を、私は読む必要があるのか、読んで理解する必要があるのか、と読みながら思う。なので、何を読んでいるのか・どこに向かって読んでいるのか分からなくなる。時間の無駄とさえ感じる。それを感じさせるのが目的の文章ならば、大成功だと言える。私は読者としてまんまと手の内に入っている。

ChatGPTも上手いこと書き直したよな。読みやすいし、わかりやすいし、なるほどと読んだことを納得させる。私は反射的に洗濯機が発明された時のことを想像する。洗濯機が発明された時に「心配だ。洗濯機の出現によって、人の能力が低下するのではないか」と危惧した人がいただろうか、と。100人いたら100人が両手をあげて「素晴らしい!これで女性の仕事が楽になる」と大絶賛したのだろうか、と。

金閣寺の原稿全てをChatGPTに放り込んで、スイッチ入れて、現代語と書かれた洗剤と一緒にぐるぐる回転させたら、あっという間に読みやすい文章になるだろう。これまでと違って難なく毎日読めるかもしれない。それは、発明された洗濯機に服を洗ってもらうのと同じ「楽さ」「効率良さ」「すばらしさ」なんだろうか。それとも、わからん・なんじゃこれは・と思いながらえんぴつで線や丸を書いて、うつ向きながら・たどたどしく歩いているうちに、ゴツンと頭ぶつけて見上げたら、美しい桃色の花が咲いてるのを目にする時の、驚きと感動は、手に入らなくなることを意味するものなのか。

私はデジタルもアナログも同じくらい好きだ。効率良いのも面倒なのも両方同じくらい好きだ。でも両方を一度に手にすることはできない。ひとつ手にしたら、もうひとつは手ばなさないといけない。選択の自由は時として不自由さを感じさせる。とはいえ、木綿の服を洗濯機に洗わせている間に、たらいでシルクのスカーフを手洗いする洗濯の自由は私の手の内にある。ピース。

あなたが洗濯機を発明した人に心から感謝したのはいつだろう。あなたの想像力が私の武器。今日も読んでくれてありがとう。

えんぴつ画・MUJI B5 ノートブック

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