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眉を描く

絵が描けるからといって・化粧のとき・眉が上手に描けるとは限らない。

正直・私の「眉がき」は微妙だ。右ひじに障害があって十分に曲がらないので、利き手でない左手で描いているという言い訳もある。だが、一番大きな問題は、私自身が「興味がない」と言うことだ。正直・どうでもいいのだ。だって、私自身には見えないし・私の眉の形に興味ある人がいるとは思えないし・・・。

いや、一人いた。
母だ。

あれはいつだ、最後に帰沖したのは・・・16年前だ。もうそんなになるんだ・・・。ということは私は40歳くらいだ。

空港に迎えに来た母は、私の全身を上から下まで何度もチェックするように見て、「あんたちょっと眉の描き方おかしいよ・直しなさい」。
私はきびすを返してそのままシドニーへ帰りたくなった。
母の愛情は・キングサイズの真っ黒なシーツが頭からおおいかぶさってくるみたいに・有無を言わせず一方的に表現されることが・多々たたタタある。あぁ”〜っ・すっかり忘れていたこの感覚。

母はまず私の眉の形を直す。
「あんたは性格がきついんだから、眉は優しい形に描かなきゃいけないのよ・ほら、これだったら優しい顔になるでしょう」

あの・言いましたよね。私はその時だいたい40歳だったと。
そういうわけで、実家に滞在しているあいだはものすごく眉の形に気をつけて過ごしていた。お母ちゃんありがとう・きつい私の性格も優しい眉の形でカバーできたよ・デキタヨ。


少女漫画みたいな・眉に関する美しい思い出もある。
あれは高校生の時だな。
放送部だった私は放課後はだいたい部室にいた。
部室は・職員室の斜め向かいで、図書館の出入り口もすぐで、とにかく人通りの多い廊下のそばにあった。狭い部室のドアは常に開け放たれていた。
私はその時一人でいたと思う。

彼女が突然泣きながら入ってきた。名前が思い出せないけれど、彼女はハンドボール部で、運動神経も良くて・性格が抜群によくて男子にも女子にも好かれていた存在だった。特別親しくしていたわけではないけれど、私も彼女に好感を持っていた。
しゃくりあげるみたいに・かなり本格的に泣いていたので、私はびっくりたまげて背中を撫でながら、どうしたの大丈夫となだめていた。

話を要約するとこういうことだった。
彼女には憧れている眉の形があって・私の記憶では1985年くらいの今井美樹のぶっとい眉の形だったと思う。その形を自分で初めてちゃんと作ることができた・とっても嬉しいんだ・という大喜びの涙だった。「寿司の上に乗っているマグロみたいな眉がちゃんと描けた」と彼女は言ったのだ・ウソじゃない・私の作り話じゃない。マグロという言葉のチョイスを彼女がしたのだ。

前髪を上げて、作った眉を見せてくれた。涙にぬれ赤くなったふたつの瞳の上にある眉はたしかに太かった。それに関する美意識が私に備わっていないので、「よかったねぇ〜・おめでとう」を繰り返して・気持ちを添わせるしかなかった。

彼女はその嬉しい気持ちを誰かに言いたくて、たまたまそこにいた私に注ぎ出したんだろう。注がれた私の頭はついて行けず・この全ての出来事を消化するのに時間と思考力をずいぶん必要とした。

マユの形だけで、人生が180度変わるくらいのインパクトを受けるのが10代ということなんだろう。実のところ彼女にとってのマユの問題はマユだけの問題ではなくて・彼女のアイデンティティーの確立とか・自立とかと強く結びついていたことなのかもしれない。じゃないと辻褄が合わない。

どうぞ10代の多感で傷つきやすい若者たちよ・無事にその危うい時期を乗り切って・こちらへたどりつけますように。大丈夫・人生は思っているより楽になります。本当です。心配なら私と話しましょう。✌️(へいわ)🪺

久しぶりに「Piece of My Wish」聴きたいな・・・。


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