ことばとからだで紡ぐ、アイデンティティ 第1話

旅のはじまり

今日も何を書くか決めずに、ただこころのままに進んでみようとおもいます。

以前、「服づくりの根っこをさがして」というタイトルで、私の根っことなる部分を記しました。それは私自身のことをすこし開示する必要があって、たびたびまた開示する必要があったのかな?とおもうことがあります。

10年前も、わたしを開示することに対して、不安と恐れがありました。でも、その当時を振り返るとそれはその当時のわたしを認識するためにたいせつな一歩だったんです。NYで過ごした時間が、その一歩を後押ししてくれたのはまちがいないとおもっています。そして、私のマイノリティとしての側面がNY・SFではあまり問題視されなかったことが、こころの重荷をちょっとだけ軽くしてくれました。

サンフランシスコとニューヨークでかんがえる

2013年の8月、私はサンフランシスコとニューヨークを訪れました。サンフランシスコには3週間滞在して、その後ニューヨークで2週間過ごすこととなりました。サンフランシスコではドミトリーに泊まってましたが、途中で北部のゲストハウスに移りいくつか転々としました。

そこには、94歳(当時)の前衛的なダンサー、アンナ・ハルプリンのスタジオと自宅があったんです。彼女はエイズ運動など、90年代の革新的な活動に深く関わっていた人物であり、身体表現に関するワークショップを開催するポストモダンダンスの母と呼ばれるくらい重要な人物でした。わたしは、そのワークショップに参加するために、サンフランシスコを訪れたんです。

色と感情が交差する時間

アンナ・ハルプリンのワークショップは、主にコンタクトインプロビゼーションに基づいていて、他人の身体や存在と向き合うことも重視していました。

息や呼吸、感情、体温、流れる気のようなものを取り入れたワーク、クレヨンと画用紙を使って絵を描く(自己を表現する)時間があって、すべてが美しい森の中(マウンテンスタジオ)で行われました。

崖の上には彼女の家があって、カラフルで自然に調和しているその空間がとてもすばらしく、印象的でした。特別に家の中を案内してもらったとき、プライベート空間だったから写真は撮れなかったけれど、記憶の中にしっかりと残っています。SFの独特の太陽光が部屋いっぱいにひろがっていました。木調ベースの家にポップな小物が散りばめられていて、オレンジの光で満たされていました。

自然の中にあるスタジオは、森の舞台のようなウッドデッキが広がっていて、ギャラリーのような段差がついていました。森の中の創造的な空間でワークショップは行われたのです。都市部からは車がないとアクセスできないくらい、山奥だったので私はいつも近くのバス停まで行き、WS参加者の車でピックアップしてもらって通いました。参加者の年齢や住まいも様々で、日本人は私一人でした。

Movement Rituals(動きの儀式)


滞在中、私はアンナのワークショップに参加しながら、サンフランシスコの街を歩いたり遊んだりと観光もしました。ほとんどの時間を一人で過ごし、たっぷり時間がありました。目の前に広がる港の光景やカストロストリートを見ながら、将来ここで暮らすことができるのかな、と色々考えたりもしました。(10年前の日本では、また10年前の私ではとうてい日本でやっていけるイメージを持つことはできませんでした)。

サンフランシスコはLGBTQ+のコミュニティが多く、特にカストロストリートというゲイストリートが有名です。そこでは、ゲイとして公表した初めての市長ハーヴィー・ミルクが誕生し、LGBTQ+の市民権獲得のために多くの人々が闘ってきた歴史があります。その地に赴くことは、ワークショップの参加の目的と同時に、私のルーツを探す旅として木幡先生は提案してくれました。

当時、摂食障害が完全には治っていなかったけど、少しずつ元気を取り戻していた時期でした。だからこそ、今度はわたしのマイノリティ性に向き合うタイミングでした。

私は常に、自分の問題を軽やかに超えていけるようなヒントを探していました。

アンナ・ハルプリンのワークショップで、身体を通じて感情を表現することの重要性を学び、自分のマイノリティ性と向き合いながら、サンフランシスコの文化や歴史に触れることでわたしじしんの理解を深めていきました。全てが見えない中でも、一つ一つのパズルのピースを見つけていくような旅と経験をしました。

すこやかなシェルターをつくる


この3週間で、「こうあるべき」という概念が薄れ、少しずつ生きやすさを感じるようになりました。
しかし、やはり環境――社会制度や周囲の考え方――に左右される部分は大きく、日本に戻ることへの不安や失望も感じていました。たとえば、NYでは新聞に結婚した2組が掲載されるとき、かならず同性カップルもいること、会話の中で、「彼氏はいるの?」「彼女はいるの?」とかならず異性の相手を聞くのではなく、「パートナーはいるの?」と聞くようにしているニューヨーカーの話など、ニューヨークやサンフランシスコと日本の違いは、20年分の遅れを感じさせ、東京に戻ることで再び自由を制限されるのではないかという恐れがありました。

帰る場所と「いふくと」のはじまり

とはいえ、サンフランシスコやニューヨークでの経験は、私にとってただの旅ではなく、自己を再発見する旅でした。このような中で私のアイデンティティは少しずつ形成されていったんだとおもいます。私は、自分を理解することが逃げることではなく、進むための手段であると認識するようになりました。

このような旅や経験を通じて、私は自分自身と向き合う方法を学びました。そして、その過程が私の服づくりにどのように影響を与えたか、いまの「いふくと」につながる理念の一部であると感じています。多様な存在を尊重し、誰もが心地よく感じられる場所を服を通じて提供したいという思いは、この旅から生まれたものです。

#いふくと


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