見出し画像

【感想】『ミシンと金魚』永井みみ

「幸せでした」と言い切れる人生にするためには何が必要なのか。そのヒントを教えてもらったような気がした。

【あらすじ】
認知症を患うカケイは、「みっちゃん」たちから介護を受けて暮らしてきた。ある時、病院の帰りに「今までの人生をふり返って、しあわせでしたか?」と、みっちゃんの一人から尋ねられ、カケイは来し方を語り始める。
父から殴られ続け、カケイを産んですぐに死んだ母。お女郎だった継母からは毎日毎日薪で殴られた。兄の勧めで所帯を持つも、息子の健一郎が生まれてすぐに亭主は蒸発。カケイと健一郎、亭主の連れ子だったみのるは置き去りに。やがて、生活のために必死にミシンを踏み続けるカケイの腹が、だんだん膨らみだす。
そして、ある夜明け。カケイは便所で女の赤ん坊を産み落とす。その子、みっちゃんと過ごす日々は、しあわせそのものだった。それなのに――。
暴力と愛情、幸福と絶望、諦念と悔悟……絡まりあう記憶の中から語られる、凄絶な「女の一生」。

amazon

まず物語の序盤で思わず反応してしまったのが、お年寄りに関する考察。本作の主人公であるカケイさんを通して書かれる老人論みたいなものが30代の自分にも響いた。

最初に気になったのがお年寄りに赤ちゃん言葉で話しかけるというもの。いつかは忘れてしまったが、赤ちゃん言葉のような言葉遣いでお年寄りと接している場面に遭遇したことがあった。もちろんこのお年寄りには若くて元気な時代があったわけで、今子供のように扱われて一体どのように感じているのだろうかと不思議に思ったことがあった。そんな経験があったからか、次の一文が心にひっかかった。

たまにとしよりと子どもをいっしょくたにして、赤ちゃん言葉ではなしかけてくるのがいる。自分もとしより寸前の、若づくりの女に、そんなのがおおいい。子どもととしよりは、ふつうの大人にできることがちゃんとできない、というところが似ている。けど、一周まわってから、やっぱりとしよりは子どもよかちったあマシだとおもうのよ。でも、としよりの方は、かあいくないのと、明日はわが身でもっておっかないから厄介者あつかいなんだけど、まあ若いときは誰だって、あたしだって、自分だけはとしよりにならないぞ、とこころに誓って、としよりを厄介者あつかいしてたんだから、仕方ない。(P8)

カケイさんからは、自分がこれから歳を重ねていった時に覚えていたらいいなと思う言葉も続いて出てくる。

でも、まあ、とにかく、としよりになったら、ほかのじいさんたちみたくえばってのは負けで、おもしろいこといったりやったりしたもん勝ちだ。(P10)

そうそう、お元気ですか? ってきかれたときのこたえは、まあ、これっていう正解はない。人生みたく。人生にこたえがあれば、としよりは苦労しない。みんな、あれこれ、後悔しない。みんな、たいがいのとしよりは、後悔している。(P11)

自分はとにかく威張ったり偉ぶる人が苦手な一方で、年を重ねていくうちに自分の中にそうなってしまいそうな気配が潜んでいるのを感じるからこそ印象に残った文でもあった。

そして80歳の自分がどうなっているのかなんて想像できなければ、今でも誰かを笑わせるような面白いことを言ったりやったりするのも苦手で、老後に面白いことができるようになっているとのも思わない。おまけに「たいがいのとしよりは、後悔している」という言葉。自分の老後に勝ち目はなさそうな気にもなったりする。

そんな興味を引かれた老人論から、介護士のみっちゃんから「カケイさんの人生は、しあわせでしたか?」と聞かれたことから、次第に話の軸はカケイの人生へと移っていく。

質問を受けたカケイは、「けど自分の人生についてしあわせだったかとたずねられても、考えたことがないから、正直言って、わかんない。(中略)じぶんの来し方を、そのまんましゃべってやろう」と、自身の人生を語り始める。

彼女の人生は壮絶そのものだった。なかでも一番の大きな出来事は、2歳過ぎの娘の道子(みっちゃん)が死んだことだろう。そのことで自分を責めるカケイ。道子がいた時代はカケイにとって間違いなく幸せな時間が流れていた。兄貴は道子にたくさん玩具を買ったり、広瀬のねーさんと一緒に道子のことを可愛がった。兄貴は徐々にまっとうな道を歩み出し、道子が生まれたことで全てがうまく周り始めた時に、道子が死んだ。

そして現代。道子の父でありながらカケイの嫌いな「みのる」が死んだことを受け、自分は道子といた時間が幸せだったと確信を持つ。

あたしは、道子にあえて、よかった。
たとい。
どんなめぐりあわせであろうと、道子にあえて、ほんとに、よかった。
そのあとで、どん底を味わなくてはならなくなって、うんとううんと悔やんでも、そん時は、道子が生きていた時は、ちょっとの間だったけど、しあわせだった。
うんと、ううんと、しあわせだった。
あたしには、しあわせな時期が、たしかに、あった。
そんなことはないとはおもうけど、今までだってなかったけど、なんかの折りに、だれかに、
しあわせだったか? と、きかれたら、そん時は、
しあわせでした。
と、こたえてやろう。
つべこべ言わず、ひとことで、こたえてやろう。
(P100)

そして現在に話が戻り、カケイはとある事実を知ることになる。そして物語は終わりへと向かっていく。

そして終盤にカケイは次のような言葉をつぶやく。

しみじみ、おもう。
わるいことがおこっても、なんかしらいいことがかならず、ある。
おなし分量、かならず、ある。
(P131)

カケイには悪いことの方が多いように思えたが、カケイはどうして悪いことと良いことが必ず同じ分量あると思えたのだろうか。自分であればそんな風には思えない気がした。

これまでの自分の人生を簡単に振り返ってみても、悪いことなんて大して起きていないように思う。それでもまだ起こるかもしれない良い出来事を欲している。「幸せだったか」と聞かれたたら、ひとことで「幸せでした」と言える自信がない。

でもそんな状態がもう幸せなのかもしれない。

カケイにとって道子がいた時間のような、何かそういう時間をを見つけて大切だと思えない限りきっと「幸せでした」と言い切れないまま終わりを迎えることになるのだろう。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?