【感想】『ミシンと金魚』永井みみ
「幸せでした」と言い切れる人生にするためには何が必要なのか。そのヒントを教えてもらったような気がした。
まず物語の序盤で思わず反応してしまったのが、お年寄りに関する考察。本作の主人公であるカケイさんを通して書かれる老人論みたいなものが30代の自分にも響いた。
最初に気になったのがお年寄りに赤ちゃん言葉で話しかけるというもの。いつかは忘れてしまったが、赤ちゃん言葉のような言葉遣いでお年寄りと接している場面に遭遇したことがあった。もちろんこのお年寄りには若くて元気な時代があったわけで、今子供のように扱われて一体どのように感じているのだろうかと不思議に思ったことがあった。そんな経験があったからか、次の一文が心にひっかかった。
カケイさんからは、自分がこれから歳を重ねていった時に覚えていたらいいなと思う言葉も続いて出てくる。
自分はとにかく威張ったり偉ぶる人が苦手な一方で、年を重ねていくうちに自分の中にそうなってしまいそうな気配が潜んでいるのを感じるからこそ印象に残った文でもあった。
そして80歳の自分がどうなっているのかなんて想像できなければ、今でも誰かを笑わせるような面白いことを言ったりやったりするのも苦手で、老後に面白いことができるようになっているとのも思わない。おまけに「たいがいのとしよりは、後悔している」という言葉。自分の老後に勝ち目はなさそうな気にもなったりする。
そんな興味を引かれた老人論から、介護士のみっちゃんから「カケイさんの人生は、しあわせでしたか?」と聞かれたことから、次第に話の軸はカケイの人生へと移っていく。
質問を受けたカケイは、「けど自分の人生についてしあわせだったかとたずねられても、考えたことがないから、正直言って、わかんない。(中略)じぶんの来し方を、そのまんましゃべってやろう」と、自身の人生を語り始める。
彼女の人生は壮絶そのものだった。なかでも一番の大きな出来事は、2歳過ぎの娘の道子(みっちゃん)が死んだことだろう。そのことで自分を責めるカケイ。道子がいた時代はカケイにとって間違いなく幸せな時間が流れていた。兄貴は道子にたくさん玩具を買ったり、広瀬のねーさんと一緒に道子のことを可愛がった。兄貴は徐々にまっとうな道を歩み出し、道子が生まれたことで全てがうまく周り始めた時に、道子が死んだ。
そして現代。道子の父でありながらカケイの嫌いな「みのる」が死んだことを受け、自分は道子といた時間が幸せだったと確信を持つ。
そして現在に話が戻り、カケイはとある事実を知ることになる。そして物語は終わりへと向かっていく。
そして終盤にカケイは次のような言葉をつぶやく。
カケイには悪いことの方が多いように思えたが、カケイはどうして悪いことと良いことが必ず同じ分量あると思えたのだろうか。自分であればそんな風には思えない気がした。
これまでの自分の人生を簡単に振り返ってみても、悪いことなんて大して起きていないように思う。それでもまだ起こるかもしれない良い出来事を欲している。「幸せだったか」と聞かれたたら、ひとことで「幸せでした」と言える自信がない。
でもそんな状態がもう幸せなのかもしれない。
カケイにとって道子がいた時間のような、何かそういう時間をを見つけて大切だと思えない限りきっと「幸せでした」と言い切れないまま終わりを迎えることになるのだろう。
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