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【Essay】 『震災と原発の記憶 ~一人ひとりが問いつづけねばならない~』

 映画『Fukushima50』を観た。2011年3月11日、津波に襲われた福島第一原子力発電所の人びとの奮闘の記録。エンターテイメントの枠組みでこのテーマを扱ったことそのものに、私はこの映画の最大の意義を見出す。

 劇中、引っかかることは少なからずあった。この物語に映画としての脚色がどれくらい許されるのかということや、無能っぷりを次々と露呈する首相の過剰な演出が気になるという難点など。それでも、一場面ごとの克明な描写や、役者たちの熱演は、物語としての見ごたえを充分に支えていた。

 あの日、テレビの報道でしか見ることのなかった、知ることのなかった大地震の悲劇と、それが引き金となって起こった原発事故の全貌。原子力発電所内部において、これほど多くの人びとの死の覚悟があったという事実の認識が薄かったことを、私は映画を観終わったあと、恥じなければならなかった。「決死」という状況がどんなものであるのかという実感が、映像そのものの力づよい〝語り〟によって喚起された。

 地震、原発。21世紀を生きる日本人として、この二つの巨大な存在――それはあまりに巨大すぎる――と向き合うことから逃れることは、決してできないのだと思う。私たちの暮らしは、いつどれくらいの規模で揺れるかわからない不安定な大地の上で、国内自給率のきわめて低いエネルギーの恩恵を受けて成り立っている。

 そのことを痛切に思い知るきっかけは、幸いというべきだろうか、私自身にこれまで多くはなかった。震災関連の映像や報道からは目を背けていたといっても嘘ではない。端的に、恐怖感ゆえ。

 原子力発電の是非についても、表面的な知識しか持たない自分があれこれ言ったり考えたりすることは、イデオロギーの激しい渦のなかに素っ裸で飛び込んで、わかりきった大けがを負うような馬鹿げたことだという不安が常にあった。それならば、〈沈黙〉や〈我関せず〉という態度をできる限り取りつづけることこそが、若い私たちにとっては賢明なのだと。

 けれど、そういった〈沈黙〉や〈我関せず〉は、いつ、どういったかたちで身に及ぶか知れない緊急事態において、〈無責任〉という悪魔をよぶ。

 そのことは、今回の原発事故で糾弾された、政府や東電幹部の無責任な大人たちに向けられた、私たちの静かな〈怒り〉が、なによりも知っていたはずだ。

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 映画の終盤で、佐藤浩市演じる伊崎利夫が問う。

「おれたちは、なにか間違ったのか?」

 その言葉は、あらゆる立場の人が、あらゆる方向へ、ときに自分自身にも向けて、あの日以来、問いつづけた重い問いではないだろうか。

 所長の吉田昌郎(渡辺謙)はそのとき言葉につまる。と同時に、私自身も含め、多くの観衆が、《自分はなにも間違っていない》と信じてやまない自分自身を内に見つけだしたのではないだろうか。

 今回の事故を経験するまでの電力業界の在り方、政府や東電幹部の対応は、そんな一人ひとりの〈傲り〉の気持ちの集積の結果といえるだろう。必要以上の首相の戯画化は、そこに一人の、判り易い「悪役(ヒール)」像を求めているように思える。が、そんな「悪役」が、「決死隊」と呼ばれた現場の英雄たちと、光と影のように対立し怒号を飛ばし合う、スクリーンで描かれた五日間には、この問いに対する答えの本質はあり得ないのだ。問うことも答えることも、そして行動を起こすことも、皆にとっての「私自身の課題」なのだから。

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 当事者意識の欠如という、本質的な、〝私たちの〟問題は、まだなにも解決していない。〈問うこと〉はまだはじまったばかりに思える。事故がいまだ収束していないというれっきとした事実と併せて、一人ひとりの震災の記憶の風化はぜったいに起こってはならない。記憶の風化は、自覚の風化でもある。

 それだけに、映画の最後のテロップは、まるでこの問いと私たちとの関わり合いが、一応の決着を迎えた感をいだかせると指摘されても、無理はないだろう。

 原発という巨大な存在と、私たちの〈沈黙〉や〈我関せず〉が生きつづける限り、日本人として〈問いつづけること〉を、私たちはあきらめてはならない。あきらめることは決してできない。

〈終わり〉

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