【エッセイ】『文学は楽しく、カッコよく、セクシーに!』

〈文学は楽しく、カッコよく、セクシーであるべきだ!〉……

 今回のコラムを書くにあたって、こんな言葉をひらめいてしまったのは、僕も晴れて「新・小泉チルドレン」ということだろうか……。

 ――さて。なにかと物議をかもしている、小泉進次郎環境大臣の「セクシー発言」だが、どうやらこれは失言でも放言でも、あるいはウケをねらって「スベった」わけでもなさそうだ。当の記者会見のやりとりを読めばそれは明白なので、ここでは具体的には書かない。ただ、何をしてもたちまち「炎上」の方向へもっていかれるメディアの人気者は大変だなあと、つくづく思うばかりである。

 一方で、環境問題に関してはそう楽観してはいられない。それは当然、他人ごとではないからだ。環境問題だけではない、政治家まかせにしてはおけない、由々しき問題が世界規模で山積している。そんなことは新聞を読まなくてもわかる。選挙に行くこと以上の具体的な行動として、国単位での「ベターな明日」の模索に一国民として参画する方法を、いま僕たちは見つけ出さねばならないのだろう。そのためには僕個人には、国政の知識が足りていないのかもしれない。新聞はどうやら読んだ方が良さそうだ。

 小泉大臣の話にもどると、大臣はお父さんに似て、レトリック、というより瞬発的に発する単語のチョイスがきわめて独特で、おもしろい。そして語り口にいちいち、ただならぬ〝熱がある〟。具体性に欠く発言と指摘されても、彼なりに真剣に言葉を選んでいるんだろうな、と僕はわりあい好意的に受けとってしまう。政治家としての手腕や実行能力は別にして……(それはこれから大いに見せてくれるのだろう)。そしてなにより、進次郎さん、詩人としての才能がおありなんじゃないか?と、彼の言葉選びの妙を知れば知るほど、本気で思う。それはけっして皮肉などではなく、僕の立場からすればまったくストレートな称賛として。

 日本人の詩人といえば、僕はまっさきに中原中也を思い浮かべる。中也といえば『汚れつちまつた悲しみに』や『サーカス』などが有名だ。国語の教科書でも多くの作品が採用された・されている、「夭折の天才詩人」という形容がいかにも似合う、明治から昭和を生きた詩人だ。

 ところで詩人という肩書は、中原中也くらい有名にならないとかなりきな臭い。友人が深夜の青梅街道で散歩中、職務質問を受けた際に、「ご職業は?」の質問に対して「詩人です」と答え(なぜそんなリスクのある大嘘をついたのか。答えは「酒に酔っていた」から)、職質が長引いたらしい。現代日本で詩人を名乗って生きてゆくためには、常に白い目を向けられることを覚悟しなければならないようだ。

 中原中也は、芸術の技巧論を「不可能」だとした。

ただ叫びの強烈な人、かの誠実に充ちた人だけが生命を喜ばす芸術を遺したのである》――すなわち優れた芸術は「技巧」によって生み出されるのではない、人の熱烈な思いが、揺れ動く情緒こそがその源泉なのだと。

 なんだかこの言葉、小泉親子のことを言っているみたいだ。まさにカッコよく、セクシーな(?)アフォリズム。

 ただ、中也本人は「文学と政治」という当時の文学界のトピックに対して、それに迎合して詩作するということはほとんどなかった。自然のありさまや人間の内部を描く、いわば生命の「実存」に関する作品がその大半を占めている。

 先々週の『サンデーエッセイ』で、森鷗外の話題を扱った際に、文学が高校国語の「選択科目」に〝降格する〟という件に触れた。個人的に看過できない問題だったが、その記事で扱って以降、僕の周囲からも、同じ反対の声をいくらかきけて嬉しい。同時にやはりこのことは、いまいちど検討され直すべきだと、あらためて思ったしだいだ。

 時代も国境も超えて、唐突に、マイクロソフトのビル・ゲイツの話。

「紙をなくし、本をなくすことが自分の人生最大の目的だ」と、あるとき彼は言明したという。もちろん、読書そのものを否定するのではなく、「ペーパーレス」を強調する言葉として、ではあったが。

 それに大いに異を唱えたのが、2010年にノーベル文学賞を受賞した、ペルーの作家、マリオ・バルガス・リョサ。

根拠があるわけではないが、本という形態が消滅すれば文学には深刻な、おそらくは致命的な悪影響が出ると私は確信している。名目上文学とは呼ばれても、それは今日我々が文学と呼ぶものとはまったく無縁な産物となるだろう。》

 そして、

《国家生命において文学が果たすもう一つの重要な役割は、批判精神を育むことであり、文学がなくなれば、国民は歴史的変化やさらなる自由の行使など望むべくもなくなるだろう。優れた文学は、我々の生きる世界を根底から問い質す。

 ……ソー・クール!そしてじつにセクシーな言明だ。

 この一連の引用は、大江健三郎の『定義集』の引用を「又借り」したかたちで、それをここにどう書くべきか悩んだのだが、大江氏への敬意も込めて、そっくりそのまま紹介したい。文章はリョサの『噓から出たまこと』(寺尾隆吉訳、現代企画室)より。

優れた文学は、我々の生きる世界を根底から問い質す。》――

 このような、端的な、明快な言葉に出会ったとき、僕たちは理解や共感のまえに、その言葉そのものの響きに、ダイナミズムに、どっぷりと浸る、あるいは呑み込まれるような快感を味わう。そしてそれは、底の浅い理解や、行動をともなわない共感の態度よりも、じつに尊い瞬間だと、僕は一人の「文学ファン」、「文章ファン」として、つよく思うのだ。

 その動機は、たとえば環境問題や国政について積極的に考えることに、それに関わってゆくことに、二の足を踏んでいる若者が、「楽しく、カッコよく、セクシーに!」というフレーズをきいて、「あれ?なんだかこの分野、アンガイおもしろそうだぞ……」と、思える――たとえそれが進次郎さんに対して多少悪意のある触れ方だったとしても――、そんなことと同じ程度の、ささいなきっかけのひとつなのだと思う。

 けれど、そこに「環境問題」があること、――翻って、脈々と受け継がれる「文学」の偉大な歴史があることを、それを気にも留めなかっただれかが、まるで路傍の花に心を奪われるときのような、不意の繊細な感受性をもって、見つけ出すかもしれないのだ。そんな希望が、これらの〈つよい言葉〉には、きっとある。

 中也の信念は、詩作における技巧のみでは人間の人生観を詩として全的に表現することは不可能だ、というところにあった。とすれば、人が動きはじめるきっかけも、芸術が生まれる動機も、もしかすると同じなのかもしれない。すなわちそれは、端的な「感動」の瞬間にある。

 だからこそ、このかりそめの「小泉チルドレン」、今週はさいごにあらためて、そしてこのとりとめのないエッセイのごときものの締めの言葉として、いまいちど言いたいのです……。

 文学は楽しく、カッコよく、セクシーであるべきだ!!

(――「言語明瞭、意味不明瞭。」だって?まあまあ。意味なんか、あとからどうとでもなるってもんよ!)〈終わり〉

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