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【Essay】 『こころにくい月』

 初詣は調布の深大寺へ参った。

 京王線つつじヶ丘駅からバスに揺られ、5分もすると正月らしい賑わいの人ごみ。参道の活気は、この時期ばかりは、豊かな木々の緑や湧き水の流れる繊細な音を惜しみなく遠くへ追いやっている。

 もうすでに暮れはじめた日のもと、立ちこめる寒気も忘れてしまうほどの人いきれの参道をひとりで歩いた。途中、人ごみの絶えたところに寒々しく放置された自動販売機で缶コーヒーを買った。両掌につつみこむようにして持ったそのぬくもりが、いかにも冬の黄昏どきといった風情。

 こんなときに、参拝プラスアルファの寺社参詣の愉しみかた(たとえば甘味処で美味と出会う愉しみであったり)を積極的に見つけだして、それをいきいきと行動にうつすタイプの人間で僕があれば、僕の2020年のお正月休みはもっと華やかなものになったのであろう。が、僕は参拝を済ませるとすぐにうちに帰ろうとしていた。

 さっき来たばかりの参道をそそくさと下る。

 ポケットにしまっていた缶コーヒーはもうすっかり熱気を逃がしてしまっていた。僕はまるで先程の自動販売機のように、人ごみの空白を見つけだして、そこに逃げこみひとり佇んだ。ぬるくなった缶をまるで義務のようにぐいといっきに傾けて、缶の中の最後の水分が天を仰いだ僕の喉にほとんど流れこんだとき、僕は頭の上に無秩序に伸びきった枝木の隙間に隠れる、白い月を見た。

 こころにくい月。綺麗だと思った。思わずスマホのカメラを向けていた。

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 こんなときに嬉しくなって、まるで娘の運動会にいどむ父親のように、ベストショットの写真を撮ろうと意気込みすぎてしまうことが、僕のスマホの残り容量がすぐに少なくなる要因であろう。

 連写して収めた幾枚の写真を見比べながら、僕はその美しい月を見て僕のなかに反射的に浮かんだ「こころにくい」という日本語表現のことを考えた。

 こころにくい。憎らしいほどに見事、素晴らしいという意味。僕のその言葉のひらめきの根本には、その月がありありと目立って美しかったのではなく、枯れ木の枝の交差するあいだに密やかに小さく輝いていた、その在りようが重要な意味をもって関わっていたのではないかと直感する。

 『源氏物語』では、「こころにくい」という言葉は以下のように使われている。

《「いますこし光見せむや。あまりこころにくし」とのたまえば、右近かかげてすこし寄す》

 もうすこし光を見せてくれないか、あまりこころにくいので。――ここでの「こころにくい」は「薄暗い」という意味だ。

 そのほかにも「奥ゆかしい」ということの表現、そしてその魅惑を感じつつも心のどこかで抵抗したい思いの表現として「こころにくい」という言葉は、すでに平安時代から使われていた。

 奥ゆかしい、そして薄暗いということがこの「こころにくい」という言葉の原初の姿のようである。

 語源と照らし合わせたうえで、僕がその月に感じた魅惑は、まさに「こころにくい」ものだったといえるだろう。黄昏の薄闇にいまにも覆いつくされそうな地上から見上げた、いまだ澄みわたる寒空にほのかにきらめく白い月は、まさに奥ゆかしく、そして憎らしいほどに心惹かれるものであった。

 僕は僕の周りで食事やデートに夢中になっている参詣客のどれだけが、この空の“こころにくい”喜びをひそやかに味わっていることだろうと思った。虚空の淡い月影に気を留め得ないのは、人ごみの慌ただしい正月の地上にいる限りは仕方のないことでもあろう。けれど、敢えて孤独をえらぶ休暇も悪くないのだ。ひとりで空を見上げる時間がある。四季のうつろいに耳を澄ませ、目を凝らしてみるのもいいだろう。こころにくい発見がきっとあるだろうから。

〈終わり〉

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