「街とその不確かな壁」で流れる音楽
従来の村上春樹作品では、音楽や映画や小説の固有名詞を散りばめ、借景とすることによって、それらとテキストを共振させ、物語世界を広げていくという手法がとられてきた。
「街とその不確かな壁」では、音楽や映画に対する明示的な言及が過去の作品と比較して少なくなっている。時に文章の流れを寸断してしまう場合がある固有名詞の量が少なくなったことは、テキストを滑らかに読みやすくしたが、音楽へのオマージュが行間から湧きあがって補完し、借景効果は減衰していない。
音楽は彼女とともに
「街とその不確かな壁」で音楽が明示されるのは、ブルーベリーマフィンの彼女に関係した場面のみである。
ジャズは彼女のカフェで流れる6曲
『ウォーキン・シューズ』ジェリー・マリガン
『Just One of Those Things』デイヴ・ブルーベック・カルテット
『スター・アイズ』
『パリの四月』エロール・ガーナ―
『ユー・ゴー・トゥー・マイ・ヘッド』
『ウォーキン・シューズ』ジェリー・マリガン
クラシックは彼女と会う前に自宅で聞くFM放送で流れる2曲
ヴィヴァルディ『ヴィオラ・ダモーレのための協奏曲』
アレクサンドル・ボロディン『弦楽四重奏曲』
物語中、ブルーベリーマフィンの彼女のシーンだけは、従来の村上作品の風景が広がる。上記の音楽に言及したシーンの後、「私」は彼女の部屋に案内されるが、それは、ビートルズの「ノルウェイの森」の歌詞と韻を踏む展開になる。
そして明示的な音楽の存在は否定される。
「私」と彼女の関係は進展することなく、従来の小説の主人公の女性関係とは違う軌跡を辿る。
ビートルズの歌詞では、独りで寝かされ、目覚めたときに彼女がいないことに気づいた男が火をつけるが、「私」はおとなしく家に帰る。
家に帰ったその晩、「私」は「不確かな壁」を通り抜ける。
書かれてなくても流れてくる音楽
「街とその不確かな壁」では、これまでの村上作品のように直接的な曲名の言及はなくとも、文章を読むにつれて、自然と音楽が聞こえてくる効果を実装している。
壁を通り抜けた「私」は川の中を歩き、上流に向かうにつれて、自分が若返っていることを発見する。映画「イエロー・サブマリン」でビートルズのメンバーが「時間の海」で若返っていくように。
2020年4月、世界中がロックダウンしている時期にリンゴ・スターが行ったイエロー・サブマリンウォッチパーティは、コロナ禍中にあった数少ない良かった出来事の一つだった。「街とその不確かな壁」におけるイエロー・サブマリン関連のモティーフは、明示されない部分にも埋め込まれている。
水曜日の家出
イエロー・サブマリンの少年は、水曜日の夜に家から消え、母親は取り乱す。ビートルズのShe's Leaving Homeでは少女が水曜日の朝に家から消え、母親は泣き叫ぶ。歌詞と小説が双曲線のグラフのように共鳴する。
僕はあなた、あなたはぼく
物語の終盤で枕元に現れたイエローサブマリンの少年が「私」に告げる言葉も、ビートルズの詩を想起させる。
1967年に発表されたビートルズの「アイ・アム・ザ・ウォルラス」は、ルイス・キャロルが1871年に発表した「鏡の国のアリス」の「セイウチと大工」という詩にインスパイアされて書かれた曲である。その「セイウチと大工」は、マザーグースの「トゥイードルダムとトゥイードルディー」を借景として書かれた。
ここに至って、イエロー・サブマリンの少年の登場時に、意味不明なこだわりにも思えた「水曜日」が、マザーグースとルイス・キャロルとビートルズをはさんで、長大な伏線としてつながる。
「私」の枕元に少年が現れるシーンを読んだ際に、「アイ・アム・ザ・ウォルラス」が脳内に流れた読者の数は少なくないはず。
そしてその内の何人かは、映画「マジカル・ミステリー・ツアー」でビートルズが壁の前でマスクをかぶって演奏し、それを壁の上から警官が見ているシーンを連想し、本書が書かれたコロナ禍の時代の記憶を呼び覚ましたかもしれない。
鳥のように自由に
イエロー・サブマリンの少年は、「私」の枕元で、耳たぶを噛む「認証」を与えてくれと頼み、「私」はそれを承諾することによって「私」と少年は一体化し、少年は「私」に内面化され、夢読みとしての継承が行われる。
「私」を踏み切らせたのは、少年の言葉だった。それは「私」の退場を予言し、物語は大団円を迎える。
このシーンで想起されるのは、ビートルズの「フリー・アズ・ア・バード」である。1980年に暗殺されたジョン・レノンが生前に残した未完成曲に、残されたメンバーを手を入れて1995年に発売された曲であり、故人の事績の継承を成就させた曲でもある。
少年が言った「空を飛ぶ鳥のように自由に」という言葉は、「私」が夢読みとしてやるべきことをやりきって、立ち去るという主人公の最後の決断に導く起点となるが、ビートルズの歌詞はそれを暗示する。
川は流れる
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の奇数章の「ハードボイルド・ワンダーランド」では「私」は国立競技場一帯のやみくろの巣での冒険に巻き込まれる。渋谷川の暗渠をイメージした地下の川の流れは強い。
一方偶数章の「世界の終り」で「僕」が住む「街」には、美しい川が流れている。川の風景は「街とその不確かな壁」とも共有され、主人公の内面世界と一体化している。
「街とその不確かな壁」では、主人公が彼女と一緒に歩く道の脇には川が流れ、不確かな壁の内外を行き来する主人公が思い出す「街」の風景には、必ず川がある。
「ハードボイルド・ワンダーランド」で、計算士の「私」はボブ・ディランの「ウォッチング・ザ・リヴァー・フロー」のテープを聞く。
改めてこの曲を聴くと、その歌詞が「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」と「街とその不確かな壁」の三つの世界を結び付けていることに気づく。
2023年4月、コロナ禍が一応の落ち着きを見せた頃、81歳のボブ・ディランはノーベル文学賞受賞後初の来日公演を行った。東京での公演は4月11~12日および14~16日に計六日間行われた。
ライブの一曲目は「ウォッチング・ザ・リヴァー・フロー」だった。
ボブ・ディランのライブに行き「街とその不確かな壁(公演が無かった13日に発売された)」を読んだ人にとって、小説の中に描かれた川の描写は、ボブ・ディランの歌声とともに記憶されることになった。
それは誰も予期しなかった単なる偶然だったとしても、2023年の4月に起きた物語性のある奇跡として記録されても良いのではないかと思う。
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