「街とその不確かな壁」とイエローサブマリンの奇跡
2020年4月25日の奇跡
世界が新型コロナウイルスに襲われ、ロックダウンに陥っていた2020年4月23日、リンゴ・スターからのメッセージが届いた。皆でステイホームしているのだから、イエローサブマリンを見ようよと。
そして2020年4月25日土曜日に、映画イエローサブマリンがYouTubeで全世界一斉に無料ライブ配信された。開始時間の米西海岸9時 (米東海岸12時/英国17時)は日本時間で翌26日の午前1時だったが、日本からも多くの人が参加した。
イエローサブマリンが与えてくれたもの
イエローサブマリンは、同名の曲を主題歌として1968年に製作されたアニメ映画である。そこではイエローサブマリンに乗ったビートルズの4人のメンバーが、平和なペパーランドを襲う敵と戦う。
当時コロナと闘うために普通の人ができたことは「何もしないこと」だった。家の中に引きこもって、人との接触を最小限にする。戦いというにはとても奇妙だったが、現実の出来事だった。そんな中で、世界中の人が同じ時間に同じ映画を見て、お互いの声は聞こえなくとも、各々の部屋で歓声を上げて歌を歌う。それは2020年の4月に起こった奇跡だった。
映画の中で歌われるビートルズの歌詞はどれも心に沁みるのだけれど、特にNowhere Manで歌われていた「見通しのなさ」は、まさに当時の気分を的確に表していた。
映画ではジェレミーという、性別を超えた謎の人物というか生物が現れ、不思議な能力を発揮し、Nowhere Manの曲に合わせて踊り、渦巻きの中を回る。そしてそこには出口はなく、彼(彼女?)は孤独に沈む。そこに手を差し伸べたのがリンゴだった。
そして映画が公開されて半世紀以上たった2020年に、リンゴがピースアンドラブを呼びかけて、世界中の人がイエローサブマリンを無料で見られるようにしてくれた。そして人々は、つながりを取り戻すことを思い出し、コロナ禍における希望をもたらすものとして、イエローサブマリンは新たな意味をまとうこととなった。
村上春樹の新作「街とその不確かな壁」
コロナウイルスが猛威を振るい始めた2020年の3月に村上春樹が書き始めた「街とその不確かな壁」は3年後の2023年4月13日に発売された。2020年当時、世界中の多くの人と同様、家に閉じこもっていたであろう作者が、4月26日未明にイエローサブマリンを見ていたのかどうかはわからない。
しかしながら、世界中の人々がロックダウンや自粛という「壁の中」にいた時期に起きた数少ない良かったことの記憶を、小説の中で未来への希望と継承を担う少年のシンボルとして残してくれたことに感謝したいと思う。
映画イエローサブマリンが公開された1968年に村上春樹は故郷を離れて上京し、早稲田大学に入学する。そして10年後の1978年に小説を書き始めた。
「街とその不確かな壁」の主人公の年齢は45歳。生まれたのが2023年の45年前だとすると、1978年に生まれた計算になる。
作者が小説を書いてきたのと同じ期間を生きてきた主人公が、作者の転機となった年に公開された映画の服を身につけた少年に語りかける。その光景を2023年に読むことができるのは、とても幸せなことだと思う。
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