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わたしの赤ちゃんはもうここにはいないけれど、わたしは確かに「お母さん」になった ①


胞状奇胎になったはなし。


 わたしの赤ちゃんは、もうお腹の中にいない。

 今年のバレンタインデー、わたしは自分のお腹に新しい命が宿っていることを知った。しかし、女のひとというのはおもしろいもので、わたしはそのことをもうずっと前から確信していたように思う。もちろんくるはずの生理が来なかったり、なんだか体調がすぐれないように思ったりもしたのだけれどそんなことよりも、あ、いのち。と、はたと思った瞬間があったのだ。
「多分わたし、赤ちゃんがいる、ここにひとつ、いのちが。」
そんなふうに感じたのだ。本当に突然。

 わたしの夫は(彼こそとてもベイビー・フェイスだというのに)とにかく子どもが好きで、どんなところでも子どもを見かけると、それはもうほんとうに幸福な眼差しを向ける。綺麗な褐色の透き通った瞳(め)で。
そういえばわたしが初めて夫に惹かれたのは、まるで絶望を知らないかのごとくまっさらに澄んだ、彼の瞳だった。
夫が子どもに対して、その眼差しを向けるたび、わたしは喉の奥がきゅうっと締め付けられたものだ。あまりにも愛おしそうに見つめるものだから、きっとわたしは嫉妬していた。それもちゃんと女として、あんなにもあどけない子どもに、大人げもなく。彼らにはなんの悪気も、悪意もないというのに。

わたしは思うのだけれど、悪意がない、というのは時に、悪意があるということよりも、ずっと相手を苦しめるものなのだ。

 赤ちゃんができた、とわかったとき、いちばんによみがえったのは、夫のその幸福の眼差しだった。無機質な診察室の中で、この子はしあわせになるだろうな、と思った。その酔っ払ってすらしまいそうな幸福な日々を思い浮かべて、わたしはしみじみとそれに浸った。けれど同時に、もしも女の子だったら、徹底的に戦わなければいけない、と心に誓う。少しでも気を抜けば、おそらくわたしは負けてしまうだろうと思うから。
女と女の戦い。
わたしの血も引いているのだから、きっと夫を魅力的に思うに違いないのだ。

「妊娠6週ですね、胎嚢がまだ綺麗な形に見えていないので、また1週間後に来てください」

化粧気のない、整った顔をした産婦人科医は、無表情のままそう言った。ドラマでよく見るみたいにおめでとうございます、と言わないのは、この人がこんな瞬間には慣れすぎているからかしら、と思いながら、わたしは診察室を後にした。


 帰宅した夫にエコー写真を見せると、夫は文字通り飛び上がって喜ぶと何度も、ありがとう、といった。まだなんの音も動きもないわたしのお腹にぎゅうっと耳を当てて、くすくすと笑う。
なんて清らかなひとだろう。夫のつむじをじっと見ながら、わたしは生まれてくる子どもを、この人よりも愛おしいと思ってあげられるかしら、とぼうっと思ったことをよく覚えている。

つづく

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