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優しいは正義なのか

小さい頃から周りによく
「あきちゃんは優しいから」と言われてきた。

両親にも良く言われてた。

私はこの言葉の意味がよくわからない。

誰かに優しくしたくて何かをした事が
ほとんどないからだと思う。

誰にも嫌な思いをしてほしくなくて
みんなに笑ってほしくて
いつも穏やかな空気が流れていてほしくて

ただのエゴかもしれないけど
とにかく、誰も、嫌な思いを、辛い思いを、
してほしくないと言う気持ちが強いように
自分では思う。

そのためにいつも私は
自分の立ち回り方を考えて考えて生きてきた。

父の機嫌を損ねると暴力を振るわれるのが怖くて自己防衛の為に身についた技なのかもしれない。

あとは自分に素直に、自分を優先する事で
自分の居場所が無くなるような気がして
怖いんだと思う。

大人になってたくさん、本当にたくさんの
自分だけの居場所やお気に入りを見つけてきた。

私の周りにはこんなに素敵で、
もう安心していいんだって頭ではわかる。

それでもやっぱり幼い頃に父の機嫌を損ねると
頭ごなしに人格否定され、
生きている意味がわからなくなる虚無感は
ずっと心の中にある。

そんな虚無感から逃げたくて
例えストレスがかかっても
自分の存在意義を確認したくて、

誰かが嫌な思いするくらいなら
私が我慢すればいいだけと思って行動することが多々ある。

だけど、周りはそんな私の心情なんて
わかるわけないから、
「あきちゃんは優しい」という
評価になるんだと思う。

でもよくわからない自己防衛の為に
他人の思うがままの行動をすることが
本当の優しさなのか私はわからない。

むしろ自分は正直しんどい事の方が多いので
一種の自傷行為的な感情の処理の仕方を
しているような気がする。

だから余計に周りから
「あきちゃんは優しい」と言われると
違うんよ!!!!!という気持ちになる。

でも28年もそんな感じで
感情を整理し自分の存在意義を確認しながら
生きてきたので今更どうすればいいのか
わからない。

自分に正直になったところで
みんなが言う"優しいあきちゃん"じゃ
なくなったとき、

一体誰が私のことを必要として、
そばに居てくれるんだろうか、という

メンヘラみたいな思考回路に着地してしまう。

毒親からの逃げ方が頭の中では
わかるようになってきても、
幼い頃に受けた扱い方は
一生付きまとう。

例え切り離して考えられるようになったとしても
何も傷付かず存在を肯定されて生きてきた人とは
同じにはなれないのだ。

綺麗事にしか聞こえないと思うけど
私は本当に、誰にも、嫌な思いも、辛い思いも、してほしくないと思っている。

例え私を傷つけてきた人達でも
私の知らないところで、私に関わらず、
幸せになってくれたらそれでいいと思う。

だけど、たまに、
どうして自分だけこんな嫌な思いをしなきゃいけないのかという思考にハマってしまう。

そんな思考にハマるくらいなら
嫌な奴にはいじわるできるくらいの
性格になりたい!!

どうせ怒らないし、最後は優しくしてくれるだろうと思って舐めた態度とるんじゃないよ!

こちとら、めちゃくちゃ無理しとるんじゃ!

化粧落とさずに寝ても一生荒れない肌質とか
その日の服装によって体型がどうにでもなるとか
なんか、そーゆー付加価値ないと
いい加減そろそろ割に合わないんだが?

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