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五官は人間の正直な窓(唯識に学ぶ007)

前五識つまり感覚が人間の生にとって大きな意味を持っているということについて、他に感覚は嘘をつかないということがある。

「仏教の心と禅(太田久紀著)第六章より」

感覚は嘘をつかないなどと考えたことがなかったです。感覚は、風邪をひいたりすると味覚が変わったり、冷えた身体では水でも温かく感じられたりと、自分の身体の状態によっては受け取り方が変わります。このような面をみると感覚はあてならないこともあるけれど、嘘をつかないってどういうことなんだろう気になります。

「膚が合わぬ」とわれわれの祖先はいいことばを残してくれているのであるが、頭(第六の意識)では、いい奴だと理解できても、膚が合わない、本当に膚と膚とを合わす気になれないという人間関係がある。<触識>が嘘をつかないのである。
 また、こんなこともある。気持ちの上で一応仲直りをしても、眼と眼を見合わせることができぬうちは、その仲直りは本物ではない。本当に仲直りをしたかどうかは眼できまる。ここにも前五識の不思議がある。
 眼識とか耳識とか乃至身識とかの表面の<心>は、深奥の<心>の正直な窓口といえる。

「仏教の心と禅(太田久紀著)第六章より」

たしかに、肌が合わない、気が合わないというのはありますね。物事の受け取り方次第で感覚が変わるということでしょうか。

僕は20代の頃うつ病でした。その時は、大好きなゲームをしても、ぜんぜん楽しいとは感じなかったのを覚えています。何をやっても上の空、苦痛、無気力、感じない。そういう状態でした。そういうときは、感覚が正常に働いていなかったように思います。

 仏教は<心>の宗教であるというとき、その<心>は決して思想や主義や観念体系のみを指すのではなく、見る聞く、さわるというような最も日常性に密着した生の動きをも包含していることを忘れてはならぬのである。
 理屈や思想が変わるのではない。感覚まで美しく変わるのである。そこまで変わらぬような変わり方は、所詮遊びにすぎないのかもしれぬのである。

「仏教の心と禅(太田久紀著)第六章より」

前回の記事<心>の深さー八識(唯識に学ぶ005)で、心は、一から八識すべてを心と定義していました。心は内面だけをさすのではなく、内外合わせての心ということ。言行一致ができているかどうかが大切とこの章は述べていると思いました。

仏教に深く帰依したといわれる光明皇后。感染のリスクがあるのに、ハンセン病患者の膿を吸い出すというエピソードが伝えられています。同じように、三蔵法師もハンセン病で苦しんでいた老僧を看病して、般若心経を授かった言われています。

光明皇后や玄奘三蔵は、その志を問われました。観念だけか。それとも行動できているのか。目的が衆生救済ならば、今どうすべきか。目の前で苦しんでいる人を見過ごせますかと。

理屈や思想だけではなく、感覚(行動)まで美しく変わってこそ、身についたということですね。厳しい言葉です。自分は実践できているだろうかと姿勢を正される思いです。

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