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余情 14 〈小説〉

 最初の十年を、私は必死に過ごしてきた。血を吐くのではないかと思うことも、何度もあった。目眩や吐き気、食欲を失い、体重は坂を滑っていくように落ちた。それなのに体は重たくなるばかりで、何をするのにも恐ろしく気力を振り絞る必要があった。よく耐えたものだと、自分のことながら褒めたくなる。それがゆっくりとでも薄まる苦痛ならよかったが、強弱が多少付いただけで、死ぬ直前まで私の体調はぐずぐずだった。
 あなたが死んだことを、あまりにあっさり世界が受け入れてしまうから、私ぐらいはと爪を立て続けた結果の不調だった。だからどうすれば回復するのかは単純なことだった。けれど、回復したいのかどうかも分からなかったのだ。
 あなたがいない。それでもここに居なくてはいけない。そのちぐはぐさが、私の体と心の乖離を起こすことになった。私には倒れ込むことは出来なかった。立っていられないと喚き散らす私に、一度でもそれを許したとしたなら、もう二度と立ち上がることはできないと確信していた。どうすることも出来なかった。抱きしめたり、慰めたり。それを欲していると、思いたくなかったのだ。それを口に出して要求してしまったなら、あなたがいないことを本当にしてしまう。
笑ってしまうけれど、そう信じていた。あなたがいないことを理解していた。あなたがもうどこにもいないのだと、自分自身に一番言い聞かせたのは私だ。それなのに、もう一人の甘ったれの私が、それを拒んで聞き入れなかった。聞き入れなければここだけでも、その事実が覆る。そう信じようとしていたのだ。そのままの状態で、私は十年を重ねた。体と心の乖離、そして心でさえ一つでは居られない状態が当たり前になっていた。当たり前になったことで、苦しくなくなるわけではなかったけれど。
 その状態が、あまりに最近まで続いていたから、二度目の私の有り様が、私自身不思議でならなかった。嵐は止まないが、慣れた環境に、どこか懐かしささえ感じていた。止まないと分かっているからなのか、これからの十年のイメージが具体的に分かっているからか。少し気持ちが緩んでいるのかも知れなかった。
 寝転んだまま、私は後輩が貸してくれた本を読んだ。文字を追っている時は、ここに居るわけではない。私という存在を世界が忘れてくれる。私がいないのだから、嵐でさえも音を失ってしまう。屁理屈のようなこの場所が、私にとっての唯一深く息を吸える場所だった。
 私は今まで本の人物と、自分自身を重ねて読むことがなかった。事実だけを構築していく。それにいいも悪いも、好きも嫌いもなかった。だからジャンルというものにも拘らなかった。
 後輩が貸してくれた本は、それなのに、自分の意志では、読むのを止められなかった。過剰に感情移入をしていたとか、物語の展開が気になったとか、そういうことの奥の、書いた人間の圧倒的な熱量に引き摺られた結果、本を閉じることが出来なかったのだ。
 この本は、とても普遍的な物語だった。
 主人公は女とも男とも明言されない。幸せでも、不幸せでもない日々を、盲目的に自身から送り出し、そうして支払われる時間を身のうちに呑み込んでいく。そうして重たくなっていく内側のために、沈んでいく想像に浸っては、主人公は満足していた。
主人公は、周りの誰に対しても同じ対応をし、挨拶には挨拶を、憎まれ口には軽口を、影で叩かれる空虚な罵りには、ただただ興味を失っていくことで釣り合わせることにしていた。
 そんな主人公の世界は、一人の人物と出会ったことで一変することになる。
その人は輝く髪を長く垂らし、鋼のような美しい睫を茂らせ、それに囲まれた湖面もまた、水銀を貯め込んだような妖しい輝きで満たしている。白を超えた肌の色は、内側でうごめく存在を否定し、誰もが軽々しく触れようとは思わない存在として、場所を空けさせた。その人がいる事実があまりにも神聖な光を放つために、世界を歪ませているようにも見える。そのため誰もがその人を崇めたが、それ以上に畏れた。同じ生き物であることを、疑うほどの存在だったのだ。主人公は今まで感じたことのない感情に、ここまでうまく調教してきた感情を引きずり出されては、力任せに千切られ、破片を更に個々に砕かれ、肉片や赤い水滴さえ存在を失わせるほどの執拗さで消されていった。そうして失われていくのは、一度ではすまなかった。その人に目の端で触れたとき、それがどれほど一時のことであったとしても、同じことが主人公に起こる。それどころか他の誰かから、その人のことを伝えられるだけで、燃えさかる炎に主人公の全ては包まれてしまうのだった。誰の口からも、その人の名を聞きたくはなかった。誰の湖面にも、その人が写り込むことが許せなかった。そこにある全ての二対の水たまりに、そこら中のものを放り込んで濁らせてしまいたいと思っていた。
 主人公は、苛まれていた。それなのに、まるで今まで使い古してきたものを、一新してもらったかのような感謝が身内に満ちていた。今まで貯め込んできた時間は、もう主人公の口元を転がることはしなかった。
 主人公は恐怖した。こんな事態は望んではいなかった。こんな自分を望んだことはなかった。あのままで全ては、相応の状態を続けていけたはずだ。こんな不条理な感覚に体は奪われ、今まで築いてきた全てが価値のないものとして打ち砕かれていくなんて。そんなことを、どうして予測できただろうか。
 すっかりもとの自分ではなくなってしまった恐怖に、主人公は衝動的に家を飛び出してしまう。そしてひたすら歩きだすのだ。
 道はやがて失われ、足下は緩やかな上り坂になり、急な下りとなり、時々は水溜まりを作っては足を滑らせようとした。
今まで主人公の内側を埋めていた、無機質で均等な時間たちの代わりに、そこには暖かな陽光や、鳥の高い声、時々はやわらかな羽毛が落ちてきた。瑞々しい葉がその上に重なり、いつの間にか生まれていた土に、丸く転がる種が埋まっていくのが分かった。
 季節が体の内側からも広がり、世界の気候にも影響するようだった。あたたかな体の上で、静かな雨は降り、草木の伸びる外側では有り余るような光が体を強く抱いた。
 主人公はまるで生まれ変わったような、変質ではなく変容を、今は受け入れていた。あまりに多くの時間を掛けてしまったが、それに対する負い目はどこにも感じられなかった。自分自身は、たしかに世界の続柄であることが信じられ、そしてそれはあまりにも心安らかなことだった。
 主人公の全てが、もう一度この事のはじまりを爪弾いたその人に会いたいと願っていた。あんなにも苦しい一辺だった感情の線は、ここでは単純に、会いたいとだけ零れた。体の声と主人公の声が重なった、久方の瞬間だった。
 そこからはもう早回しのような旅路だった。困難だったことや、苦難に感じた道のりが、その人へ続いているという事実を乗せた瞬間、やわらかく主人公の足裏を押し上げてくれるものとなった。
 そして主人公は、もう一度その人の前に立つのだった。
 物語は、その瞬間を言葉少なく描写して終わった。その後二人はどうなったのか、どんな会話を交わしたのか、またはすれ違うだけで満足をしてしまったのか。描かれることがなかった全てが、私の中で動きまわり、そして色鮮やかな主人公の変化が、片隅で再演され続けた。あまりに鮮やかな色彩が回るために、目をつむっても、部屋の電気を消しても、あっさりとそれは浮かんで私の内側を照らした。その鮮やかさが、しかしどこか優しげで、本当なら意識を失う瞬間まであなたを思い描く痛みが、薄まってしまって、それがとても不思議だった。不思議だ、と思うことさえ、私には理解が追いつかないことだったのだ。
わたしにとって、あなたを思うこと以外が、入り込んでくること。それがどこかあたたかで、けして私を打ち消すものではないこと、そのひとつひとつが全く恐ろしくないという事実が、私の心を揺らし続けるのだった。
 

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