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詩が、生まれる


この間、
『絵本カフェくうねるん』の店主のこっこさんに

「詩を書くって心を削りせんか」

と聞かれました。

はて。

私は、

「いえ、どちらかというと、
器がいっぱいになって、
そこから溢れそうなものを移し替えるような感じで、
書かないと溢れた言葉とか感情が
外にある体を動かす火を弱めます」

というようなことを答えたと思う。

答えたけれど、
本当かな、
と少し考えたりもしました。

そういうことも勿論あって、
今書かないと頭がおかしくなるな、
と迫られて、泣きそうになりながら書くこともあります。

でも、
それは小説のほうが多いような気がします。
もういい加減書いて!!
と無言の圧というのか、
主人公たちの感情のかたまりがかけてくる圧力といいますか。
それに追い立てられて
「はい!分かりました!書きます!書きますから!」
と言い訳をしながら爆発を待ってもらって書き出すということが、
小説にはあります。
はい、私の無精のなせることなのかもしれません、、、。

何時からだったか、
たぶん去年から?
詩を毎日noteにあげるようにしてから、
意識して詩のストックを失くさないようにしてきました。

フルタイムで働く前は、
一週間で一冊ペース、遅くとも一か月に一冊のペースで詩のノートは増えていました。
それが働きだすと、
一か月は数か月に、一年に、と伸びていくようになりました。

あ、これは詩を書かなくなる日もくるのでは、
と思うこともありましたが、
そういう時期もある瞬間に一気にいくつもの詩が、
文字通り溢れてきて、
白紙を埋めていくのでした。

書かないかもしれなくても、
ノートは必ず持ち歩く。
それは今も変わりません。

今は、
私にはいくつかのスイッチというのか、
切り替えがあるのだな、と分かってきました。

たいていの日、
私が書くのは小説かnoteで、
だからまずはパソコンを開きます。

そうして時間が過ぎて、
あ、そうだ詩をアップしよう、とノートを開きます。
そんな感じなので、
何日か経つと、
「明日載せる詩がないぞ」
となります。
そうするとふわっと力の入り方が変わって、
ノートの白紙を埋めていくほうに切り替わります。
ばばっと書いて、
何日かに分けて出す。
なくなって来たらまた書く。

(川柳は、まずその文体を思い出すように、
いくつかの川柳を読んで、
ことばが浮かんでくるのを待つので詩ともやっぱりちょっと違うスイッチなんだと思います)
(ただ、ノートを開いて書くというのは同じなので、
共通項は多いのかも)

ちょっとだけ、
これ、じゃあ毎日その日に書いた詩を全部載せるようにしたらどれくらい書くんだろう、と気になっていたりもします。
そうしたら削れるの感覚になるのかしら。
削っていったら思いもしない色が出てくるかもしれないので、
そのうち、一か月とかもっと短い時間やってみてもいいような気がしています。

暗くて、ひんやりとした井戸に向かって、

「おーい」
と呼びかける。

詩を書くときのはじまりは、
そんな感じだなと、
書きながら思いました。

詩を書かずに生きていた時間は、
もう遥か昔で、
今思うと、
たぶん書き残していないだけで、
たくさん詩をつくっていたんじゃないかなと思います。
その頃の言葉に、
いつかまた会えたらいいのに。
でも会ったことがある、という感覚だけを持っているのも楽しい感覚なのかもしれません。

今日はたくさん詩を書きました。

それをまた毎日上げていきます。

よかったら読んでください。
とても喜びます。

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