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余情 38〈小説〉

「それで、結局いっしょに住むことになったっていう話?」
 目の前で頬杖をついた級友は、眩しそうに店内から外を眺めながら言った。髪はまた一段と短くなり、その色はオレンジに近いような明るい色になっていた。眼鏡の銀色が不思議にその明るさに似合っている。白色のタンクトップに、黒のパンツ姿の彼女は、制服を着ていた頃とはまるで別人のようだった。
 太めのストローで吸い上げられていく、ベリーを数種類ミックスした複雑な紫色。少しもおいしそうにしない彼女の表情だけは、あの教室で見ていた少女のもので、私は少し肩の力を抜くことが出来た。
「そう。結局、私は折れる準備を自分に課していただけだった気がするって話」
 レモンや柚の果汁をサイダーで割ったものを吸い上げながら、私は彼女の言葉を肯定した。
 あの突然の大学での再会から、話はあっという間に進んでしまった。彼女は、母親と共に不動産屋をまわり、すでにいっしょに暮らすのに良さそうな物件を見つけてきていたのだ。さすがに契約まではしていなかったが、是非私にも見てほしいと、次の休日にバイトの時間をずらして内見に連れて行かれた。その部屋は、確かに二人で暮らすにはいい広さだった。二階建ての二階の角部屋で、日当たりも悪くはない。回りには高い建物もなく、住宅街なので夜は静かそうだった。歩いていける距離にスーパーもコンビニもあり、駅までも歩いて十五分ほどで着ける。部屋の中も、きれいにリフォームがされていて、彼女から聞いていた築年数から想像する傷みはほとんど見当たらなかった。家賃も、彼女との折半になるので、かなり安く済みそうだった。
「引っ越しはいつ?」
「明日」
 私の言葉に、級友は瞬間的に表情をなくし、大きく口を開けてはみたが、思いとどまってて態とらしい溜息に留めてくれた。
「もう用意は万端ってこと?」
「というよりも、二人とも極端に荷物が少なかったってことかな」
 私の荷物は、段ボール数個でまとまってしまったし、彼女の荷物もその程度だと言っていた。家具も家電も、リースしたものを使うことにした。処分が面倒ではないのがいい。料金は、面倒なのできれいに半分にしようと話し合った。彼女は大学の推薦を取り付けてから、精力的にバイトをしたのだと言った。服などの不要品をネットで売った分や、今まで貯めていたお金もあり、余裕をもって新生活をはじめられそうだと笑っていた。
「あの子の本は置いていくってこと?」
「ほとんどね。帰りに寄って帰ってこられるくらいの近さだから」
「そりゃ便利だ」
 家を出るという話をすると、両親はすんなりと了承してくれた。一人暮らしではないということも、彼らの安心材料になっていたようだ。仲の良い同性との生活なら、きっと私の気持ちも休まるだろう。そんな母の心の声が聞こえてきそうな気がした。
「もう一日予定を伸ばせたら、引っ越し先見られたのになあ」
「次はうちに泊まりにきてね」
「いいね。半分は君の家なら、彼女も仕方なく了解してくれるだろうし」
 頬杖の手を入れ替えながら、級友は口端を引き上げた。彼女と今日会うと言ったときの、後輩の顔を思い出す。「私も行きます」という後輩を宥め、後輩の授業がある時間を狙って、私は級友と会っているのだ。
 大学の近くのモールの中にある、自然食品を謳ったカフェは、はじめて入ったが、大きな窓から降り注ぐ陽光が眩しすぎて、この季節に来るのは失敗だったと思った。店内に流れる穏やかな曲調の歌声は、さっきから歌詞を歌わないものが続いている。ひたすらに「ゥ」や「ア」、「ラ」や「ハ」をきれいに繋げているばかりだ。こういう音楽があるのか、この店の特別オリジナルな音楽なのかは分からなかったが、気持ちが静かになる音楽だった。テーブル席は昼の時間を過ぎているのにほとんどが埋まっているところをみると、なかなかの人気のお店なのだろう。
 氷が溶け始めたジュースを啜る。級友は時々酸っぱいという顔をしながら、同じように吸い上げていた。暫くは目の前の飲み慣れない飲み物を受け入れることに、二人は集中した。その頑張りで、ストローの先に水分が亡くなった頃、ふと級友が私の顔を見ているのに気付いた。
「なに?」
「なんだか、君は変わらないね」
 目を細めながら、彼女は言った。
 それが褒めているわけではないということは、分かっていた。けして哀れまれているわけでもないことも。彼女は、私に問いたいのだ。どうして頑なに留まろうとしているのかを。どうして後輩の手を取ってなお、私は留まるのか。私自身、そうすることで失っていくものがあることを分かっているのに。級友の目は、そう私にノックをしていた。私がその音に応える気がないことも、分かっているという目だった。
「そろそろ出ようか」
 どろりとした色が、彼女が放り出したストローの先から漏れていた。伝票を彼女の手が取った。
「引っ越し祝い」
 そう言って、私の分も持っていく。
彼女の真っ直ぐな背中を追いかけながら、私はやっとこの明るすぎる場所から出られることにほっとしていた。

春はあっという間に過ぎ、初夏という季節の、春以上の儚さを身に染みさせながら、私と彼女のいっしょに暮らす最初の日はやってきた。
 お互いに母親に車で荷物を運んでもらった。二階の部屋までの運び込みも、それほど苦労することはなく、昼前には母親たちは帰って行った。よかったら昼食を食べようと私の母は言ったが、私も彼女も、早く部屋を片付けたいと言って断った。
 アパートの前で二台の車を見送ると、私は彼女にコンビへ行こうと誘った。電気はもう通っているけれど、冷蔵庫は午後に届く予定になっている。家の中は、まだ何も始まっていないように見えた。
「コンビニのイートインで食べてきましょう」
 歩き始めた私の隣に並びながら、彼女は言った。すでに半袖を着た彼女は、足もとも華やかで、むき出しの足の爪には黄色のペディキュアが塗られていた。
「いつも準備が早いのね」
 その爪を見ながら言った私に気付き、一度自分の爪先に目を下ろした。それを引き上げて、私の顔を見ながら彼女は言った。
「慣れれば簡単です。先輩もやってあげましょうか?」
「いいよ。人に足を触られるのは抵抗あるの」
「潔癖ですね」
「だから距離を保ってね」
「いっしょの布団で寝ていたじゃないですか」
「部屋は別なのだから、もういっしょには寝ないでしょ」
「えー」
子供のように不満をそのまま声に出す彼女。側を、通った小さな子供が笑っていた。その子と手を繋いでいる母親らしき女性も口元が綻んでいる。
コンビニのイートインコーナーで、買ったおにぎりを頬張りながら、彼女はこれからの予定を話した。家具や家電が来るまでは、少し掃除をして、必要な買い出しのメモを作ること。料理は順番にしようと言われたが、生活のサイクルが決まるまでは出来る方がやろうと私が言った。洗濯ものは一緒に回そうとか、干すのは外か風呂場の浴室乾燥に任せるのか。共同スペースの掃除はどうするのか。すっかりおにぎりを食べ終わり、飲んでいたお茶も底に滴が残る頃になっても、私たちの話は終わりそうもなかった。
私たちはもう一度店内に戻り、飲み物をお互いに買い、外に出た。
「私牛乳じゃなくて豆乳派ですけど、いいですか」
「私はレモン派だから、どうぞ」
「食べられたくないものは、名前書きましょうね」
「食べられたくないなら、食べられる前に食べたら良いのに」
「ベストな状態で食べたいじゃないですか」
「分かった。君の名前が書かれたものは触らない」
「よろしくお願いします」
アパートの階段を上り切ったところで、彼女は私の手を握った。何もお互いに言わないまま部屋のドアの前まで歩き、止まる。柵の向こうには青い屋根のきれいな家々が並んでいる。少しだけ変化を付けただけで材質の同じ家たちは、一人の人間の表情の変化ほども違いがなかった。窓にかかるカーテンの色が違うばかりで、どこも昼の真ん中であるのにテレビの音も聞こえなかった。
「突然だね」
「大切なことはタイミングも必要でしょう」
「今がタイミングだったの?」
ぶんと強く腕を揺らして、彼女は意識して不適な笑みを作った。シンプルなジーパンに包まれた両足が、少し開いてしっかりと踏みしめる。
「よろしくお願いします」
彼女の言葉に、私はドアノブに伸ばしかけていたもう片方の手をそこに重ねた。
「よろしく、お願いします」
耳の横を落ちた髪の毛を払うのに、すぐに手は放した。ショルダーバックの中から取り出した鍵を差し込む。がちゃりと鳴って、私たちを迎え入れた部屋。室内は、締めて出ていったために熱が籠もっていた。夏がやってくる。短い初夏を踏み荒らして、あっという間に。
サンダルを脱ぎ捨てて中に入った彼女の靴を揃える。窓をどんどんと開けていく彼女の後ろ姿を見ながら、ああ彼女は他人なのだなと実感をもった。備え付けられた靴棚の上に、鍵を置く。私はスニーカーを脱ぎながら、段ボールを開けようとしている彼女に、
「先に手洗い」
と言った。

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