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傷のように見上げていた_『月』

続けざまにお二人にこの映画を勧められて、
どうしようかな、、、と迷った挙句、
観てきました。

うちの近くの映画館では9日まで。
ぎりぎりせーふでした。

この『月』という映画のポスターがとても好きです。

深い森の奥にある重度障害者施設。ここで新しく働くことになった堂島洋子(宮沢りえ)は“書けなくなった”元・有名作家だ。彼女を「師匠」と呼ぶ夫の昌平(オダギリジョー)と、ふたりで慎ましい暮らしを営んでいる。洋子は他の職員による入所者への心ない扱いや暴力を目の当たりにするが、それを訴えても聞き入れてはもらえない。そんな世の理不尽に誰よりも憤っているのは、さとくんだった。彼の中で増幅する正義感や使命感が、やがて怒りを伴う形で徐々に頭をもたげていく――。

『月』のオフィシャルサイトより

見る前から、
この映画が実際の事件を題材にしているということは知っていました。
見ている間、つねに画面が暗いこと。
そして見ているこちら側の精神面も同じような暗さを歩くことになること。
見たあとは気持ちがぐっと落ち込むだろうこと。
この映画を勧めて(いや、この方は、「観てほしいけれど勧めない」と言っていましたが)くれた人は
「健康な、元気なときに観てください」
と言っていました。
さて、私は元気でしょうか?
なんて思いながら、今日しかない!
と観たのでした。


ここから、ネタバレなことも書くと思います。
それも取り留めもなく長々と。

すごくいい映画だったので、
特別気持ちが落ち込んでいないときなら観てほしい映画でした。






この映画は、
宮沢りえさんが演じる主人公の堂島洋子さんの視点ではじまります。
彼女は有名な作家だったけれど、
震災のことをきれいに書いてほしいと編集者に言われ、
その通りに書いてしまってから書けなくなってしまっていました。
オダギリさん演じる夫の昌平さんもまた、
どうやら暫くの間仕事をすることができないでいました。
それは二人の間に授かった赤ん坊の心臓に疾患があり、
その生涯は三年という短さで閉じてしまったことが大きく影響していました。
それでも働かなくてはいけない、と
洋子さんは精神障害を持つ人たちの施設へと働きに出ます。
そこでは日常では出会うことのなかった人たちが一緒に生活しており、
施設のあっちこっちで色々な声や音が響き渡っています。
そこは森深くの建物で、
その施設の中はいつも薄暗く、
夜になるとその闇はより深く下りていくように思えます。
陽子は、初日に洋子に仕事を教えてくれたスタッフで、
彼女は帰る前に彼女に
「作家ですよね!大好きなんです!」
と言い
「私は洋子さんと似ていると思います」
とも言います。
彼女もまた小説を書いており、
この施設にいることもネタ探しのためなのだと。
もう一人、同じくスタッフのさと君は、
施設利用者たちに献身的に向き合おうとしているのですが、
その純粋なひたむきさが他のスタッフの反感をかってしまうこともありました。
この施設の中、
ただ懸命に、または間延びしたように、それともできるだけ何も感じないようにか、生きている患者たちと、
その世話をすることで摩耗していく心をどうすることもできず、
お互いのバランスを崩した歯車で走っていきます。
そうした先にあるものは、まるで細い月のようなぱっくりとした傷でした。


久しぶりに宮沢りえさんの演技を見たのですが、
私はこの方が好きだなぁ。

彼女が夫である昌平さんに対し、
ぼんやりと力のない、それなのに拒絶だけがつよく宿る目で
「生きる意味なんてあるの?」
という冒頭のあたりの場面で、私は心の底が冷えるような気持ちになりました。
ゴミ捨て場に残った三輪車を見つめる洋子さんの目の虚ろさや、
キッチンにぽつんと並んでいる車のおもちゃ。
子供が亡くなったことを示すそれらは、
確かに母親である彼女の傷なのだろうけれど、
それは父親である彼の傷でもあるのだろうに。
きっと子供が亡くなったあと、
洋子さんが後を追ったりしないだろうかと不安になっただろうし、
彼自身も仕事に行けなくなるくらいの心労を抱えたのだと思う。
きっちりと彼が仕事に行っていなかった時期の理由は語られていなかったように思うのだけど、恐らくそうなのじゃないかなと。
そんな彼に「生きてる意味ってある?」
という神経は。それを思いやれないくらい、彼女はまいったままなのかもしれないけれど。
生きていてほしいと願っている人に、自分が生きている意味ってある?なんて聞くのは。
私はできないなぁ、と。
でもそれは、きっと私自身がそんなことを言ったら相手がどう思うのか、
気になってしまって言えないのだというところもある。
自分の心から漏れたものを投げかけられるくらいに、
しっかりと関係が築かれている二人でもあるのだと、
観ていくうちに分かってきますが、
それでもじわじわと彼女と彼の間に時折り挟まれる暴力のような言葉の投げ方に、鎌で切りつけられているような気持ちになりました。

陽子さんの嘘というものに対する異常な執着、
嘘は許せないと言いながら、
彼女の口にする“本当のこと”は周りを切りつけていきます。
嘘を言われることには、繊細に、強烈に反応するのに、
彼女は自分のためには誤魔化しのための言葉を吐き続けていきます。
父親の暴力、素知らぬ顔を続ける母。
父親の浮気、それを許す母。
施設で行われる暴力のような現実。
患者のあげる声がけして漏れないような深い森の中の施設。
何重にも彼女に巻き付く「嘘」が、
その魂を圧迫し続けていくのが見えるようでした。
小説が認められないこと、父親や母親への鬱憤を吐き出すためにさと君とその彼女とお酒を飲みに行った時、
彼女はさみしさに潰れそうになりながら
「私の声は誰にも届かない」
と言いました。

さと君の中に育ったのは、いったいなんだったのか。
最初に手作りの紙芝居を読んであげている場面で、
「僕はこの場面が一番好きなんだ」
と言って花咲かじいさんの、
ポチが隣の家のおじいさんに「ここほれ」と鳴き、
汚いものが飛び出して来るという場面を嬉しそうに見せました。
一度捲ったのに、
再び戻して
「この汚いものって何だと思う?」
と聞きます。
この時、彼が感じていたのは何だったのでしょう。
汚いもの。
それはもうすでにこの患者さんたちに向いていたのか、
この患者さんたちへ人権への関心をすり減らしたスタッフたちのことなのか。
さと君の彼女は聾者です。
彼女へ向けられてきた偏見や差別が彼の中にも降り積もっていただろうし、
施設で患者さんへ向けられる視線や態度に彼女を重ねてしまったこともあったのかもしれない。
そして先輩たちからの心無い言葉から、
彼自身もまた差別をされる側に立たされそうになり、
その線引きがあいまいになっていくことの恐怖に
駆り立てられたのかもしれない。
彼が破られた紙芝居で作った月を一人の患者の部屋に貼ってあげる場面は、
涙がでるほどにやさしい。
この時の彼の思いも、
凶行に及んだ心も、
同じ線の上のことなのだと思わせてくれたのはこの場面があったからでした。
彼が洋子さんに言う
「あなたはあの人たちに可愛いと言って頬擦りができますか」
「あの人たちのような子供が生まれた友達に、心からおめでとうと言えますか」
「あの人たちを見て、気持ち悪いと思いませんでしたか。
臭いと思いませんでしたか」
というひとつひとつを零すたびに、
彼の心が剥がれていくように見えました。
それは鱗を生きながらにはがされるような。
さと君は、彼女を患者のひとたちと同じだと言われることが怖かったのかもしれないし、そうならないための線引きをきっちりとしたかったのかもしれない。

昌平さんは、
やっと決まったマンションの管理の仕事でいっしょになる同僚からの心無い言葉に凹みはしても、
怒ったりはしなかったのに、
子供や、子供への思いに無遠慮に触れられると怒れる、
やさしい人でした。
彼の作品が最後評価されたとき、
それを知らされたときの洋子さんは泣きじゃくりました。
二人は彼女との間に生まれた新しい命をどうするのかという
(また子供に疾患があったらという不安を抱えていて、
もう一度同じ悲しみが与えられたらお互いに耐えられないのを分かっているのでした。そのために出生前診断を受けるのか、受けて何か疾患が見つかったときにどうするのかの)選択を決める日、
二人の思い出の回転寿司の席で言う
「俺は一生あなたと、子供を好きでいる」
という言葉に、誠実に返す洋子さんの言葉。
この言葉が、心が、ある意味、
あの夜にさと君が投げかけた言葉へ投げ返してあげられたらよかった言葉だったのかもしれない。

さと君が凶行に及ぶ決心の朝、
彼のことを心配している彼女を抱きしめながら、
施設のひとたちを殺して来ると言った彼の喉の振動を、
彼女はどんな言葉だと思って受け取ったのだろう。
彼女が返した「あなたと幸せな人生を歩みたい」という願いを押しとどめても、決行したさと君。
さと君が侵入したところへ通りかかってしまった陽子さんを引き摺り連れて行って、その部屋の患者さんが話ができるかを言わせる場面、
彼女はあんなに嘘を嫌悪していたのに
「話せる」
と嘘を吐いた。話ができることを心があると判断しているさと君から、患者さんの命を守るために。
それでも彼は止まらず、
「話せる」
と言い続ける彼女を置いて、彼は行ってしまいます。


この映画の後半、
私の心はどこか凪いでいたように思います。
ダンサーインザダークを見ていたときのように、
あんなに最初に感じていた苦しさはいつの間にか消え、
心の底を温いものが浸しているような感覚の中にいました。
安心していたような気もします。

さと君の言ったことを、全て間違いだということが誰にできるのか。
正しいと言ってあげることもできないことが、
彼自身をひとりで追い詰めていったように思いました。
やさしくなければ、苦しくもなかったでしょう。

彼はどこまでも自分の苦しみを誰かにぶつけないように、
漏れ出さないように閉じていってしまいました。

洋子さんと昌平さんは、
どうしようもない苦しみを抱き合いながらも、
お互いを開いていくことを選びました。

どこまでも平行線に感じるような、
一歩も歩み寄れないということであっても、
開き続けていかなくてはいけないのかもしれない。

そんなことを思った映画でした。


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