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余情 11 〈小説〉


 私は、母が起こしに来る前に下におりた。簡単な朝食の用意をはじめていた私をみて、母はひどく驚いていた。
 私はこんなにも普通の子供だったのだなと、驚いた。他の人がどうかは分からないが、私は、あまりに唐突に、認識が変更されてしまったから。ゴールがしっかりと目の前に用意され、そこまで行くための、そこに行くためだけの日々が残された。そうしたら自然と、すべての関わり方が変わった。それだけのことだと思っていた。けれど、母からすればきっと、あの変化はあまりにも露骨だっただろう。
 小さくちぎったパンを噛み潰しながら、母が何度か寄越す視線に、私は気付かないふりをした。どうせすぐに終わってしまう奇跡なのだ。
 あなたは、また死ぬ。それまでの奇跡なのだ。
 
 
 病院に入って、すでにきっちりと効いている冷房に、体の力が少し抜ける。のぼせた脳に行き届いた冷たい空気。おかげでくっきりとした意識に、体全てが喜んでいるような気がした。
 あなたの病室がある階まで、エレベーターで上る。ドアとは反対側の壁に大きなガラスが嵌めこまれ、上がっている間に受付を待つ人たちの様子が見降ろせた。朝の早い時間帯であっても、大きな病院には人が驚くほど集まっている。  
 ここには、治したい何かを抱えて、誰もがやって来ているというのに、どこか安らかな、安全な空気が満ちているように思えた。現実に押しつけられている何かを、ここは遮断してくれる。ただの治したい人と、その手伝いをする人に徹することが許されている。死に怯え、思い通りに行かない体に怒り、その人の隣に居続けることに疲れ果てている誰かが居る。それを分かっていても、私は病院の中に安心を感じた。
そして絶対の絶望を、今は抱いている。
病院は、命を出来うる限り見捨てない。でもそれは限りのある行為なのだ。人の手は、必ず、手を放す時を入れ知恵されているのだ。
 短い音が鳴って、扉が開く。
 壁を離れた背中の一点が、小さく冷えた。
 
 
 病室のドアをノックした私に、あなたのおばさんがそっとドアを開けてくれた。
「いらっしゃい」
 笑った顔があなたによく似ているひと。
「おはようございます」
 久しぶりに見た彼女の顔は、私の記憶の中の印象よりもずっと若かった。死んだ私とたいして変わらない年齢に見えた。髪を後ろで一つに括り、化粧気のない顔は目尻が下がっていて、いつでも微笑んでいるように見えた。彼女の深い目の色は、あなたのものと同じだった。その目の奥に、きっとあなたと同じ種類のものが流れているのだ。
「あの子ね、夜中に発作を起こしてしまって。その後なかなか寝付けなかったみたいなの。朝方になって、やっと薬が効いたみたいでね。あなたがきたら申し訳ないって言いながら寝ちゃったのよ」
 彼女は、そう言いながら私をあなたのベッド脇の椅子へと座らせた。
「実は私もそれが心配で、まだ朝ご飯食べてないの。あの子のこと見ててもらってもいい?」
「はい。あの、すみません。待っていてもらって」
 ドアを開けながら、彼女は笑った。そっと嬉しそうな声で、
「いいの、いいの。おかげで私はゆっくり朝ご飯にありつけるんだから。そんなわけで、ちょっとその子をお願いね」
 小さく手を振りながら、彼女は部屋から出て行った。
 私はあなたの方に少し乗り出し、顔を見た。あなたの方が年上なのだけれど、深い色の瞳が閉じられていると、そこに浮かび上がるのは年齢のない幼さだった。いつもあなたが纏っている空気―うすい冬の朝よりも、淡い色の青―は、この時にはもうほとんど感じられなかった。あまりに透明で、どこにもいないみたいだ。
 たしかにここにいるのに。
 私はあなたの胸が上下するのを確認する。頬には僅かに血の色が走っていることも。爪のなかの肉の色も。あなたの生きている手がかりを根こそぎかき抱いた。必死に、そして歓喜を噛み締めながら。
 
 
 その目が開く様を目は録画していた。ふわりと蝶が羽根を広げるような、微かな風を睫が送り出す。開いた目で、しばらく天井を眺めてから数度の瞬きを繰り返して、ふとすぐ横にある私の顔を見た。あなたの目の湖面、その表面に映った私に出会う。あなたは少しだけ驚いて、その時に入った力を逃がすように笑った。
「おはよう、で間にあうかな?」
「はい、間に合いますよ。おはようございます」
 あなたの目が丸みをもってやわらかくなる。
 私もつられて笑った。
「体、どうですか?看護師さんを呼びますか?」
「ううん。大丈夫。眠ったからか気分もいいかな」
「発作を起こしたって聞きました」
「うん」
「私が時間を頂いているからじゃないですか」
「ちがうよ」
 あなたはきっぱりとした口調で言った。私の目を見つめた黒が深く、私は飲み込まれていた。空気のようにその黒は肺を満たし、私の脳まで揺らす。
「ちがう。君のおかげで、こうやって目が覚めたんだよ」
「そんなふうに言ってもらえたら、嬉しいです」
 笑いながら、私の中のあなたの黒を抱きしめた。霞のように微かに冷たく、私の中で少し湿り気を吸い込んだ黒。
 ゆっくりとあなたが起き上がるのを支えた。あなたの手を握る。細いその指に、ゆっくりと力を込めて、形や幅を覚えるように力を込めてはそっと抜くということを繰り返した。あなたは驚いたように私を見ていたが、すぐに微笑んで私が握る自身の手を見た。
「骨みたいな指でしょ」
「やさしい手です。指も真っ直ぐで、素直なんです」
「君はいつもあたたかいですね」
「あなたも、ちゃんとあたたかいですよ」
「でも、もうすぐ、それも終わってしまう」
 私は驚いて手を放してしまいそうになった。いや、離すべきだった。あなたはこぼれそうになった私の手を握り込んだ。私よりも冷たい手は、私よりも長く、大きく、今力をこめて私の手をつなぎ止めた。
「君に、約束してほしいことがあるんだ」
 背筋を氷の大群が落ちていった。その切っ先が削いでいく、小さな私の肉が血を連れて落ちて行く。小さな痛みの積み重ねが、私の息を圧迫した。
「できません」
 私の声にあなたは笑った。
「簡単な約束だよ」
「できません」
 あなたは困ったように、それでも笑いながら私の手を握り続けた。
「お願いします」
 根気よく、言葉を一つずつ形良く発して、確かに私にその言葉が撃ち込む。目が、私を包んでいた。真っ黒な、澄んだその色がやさしい。あなたが放つ言葉を、一つとして聞かないことなど、できなかった。
 私は、力が抜けたように椅子に腰を落とした。背中を丸めて、あなたが繋いでいてくれる手だけが、私を支えていた。
「こんな話をするのは心苦しいし、もしかしたら自惚れに聞こえるかもしれない。でも、どうしても、君に聞いてほしい」
 うなだれたまま、私は頷いた。
「君も気付いているんだね」
 一度目の私は、この時どんな顔をしていただろうか。いったい何を言ってもらうのか、愚かにも気持ちを昂ぶらせたのではないだろうか。取り戻せない自分の両手が汗ばみ、それなのに凍り付いていく。目は堪えるのがやっとの水で、視界がゆらゆらと揺れていた。溺れてしまえたら、どんなにいいだろうと考える。ぼやけるのが視界だけでなく、耳にも押し寄せるものだったらと。
「僕は、もうすぐ死にます」
 思わずあげた顔に、あなたの微笑がかかった。やわらかなのに、固く決意された微笑。何度もこの時を思いだそうとして、いつも記憶は有耶無耶になっていた。その答えを、私は過去に至って、やっと解くことを許された。唇が震えた。両手にはもう力がはいらない。分かっていた事実を、提示されただけだというのに。これをかつて味わったのだったか。頭の端っこで自問自答していた。冷静な部分が、弱々しく笑っている。
「そんな、こと言わないで」
 今日ではなかったはずだ。だから無防備で私は聞いてしまった。
「僕は、君の手紙に縋って、よかったと思ってる」
「あなたが、しぬなんて」
「だいじょうぶ」
 あなたは、あなたから逃げる私の目をそっと掬い上げた。形だけを保った、両手をもう一度握りなおした。細い細い神経の何本かが、息を吹き返す。あなたの手があたたかだから。動いていることに、私の目からは耐えられず、大きな滴が溢れた。それは津波のように、頬を削るように落ちていった。大昔の天動説で語られた、世界の果てのように、その一滴は私を離れていった。それは私のスカートに、思ったよりも大きな染みになって消えた。それは染みたというよりも、まるで大穴を空けた隕石のようだった。
「君が死ぬわけじゃない。死ぬのは僕だよ」
「そんなの、そっちのほうが、だいじょうぶじゃありません」
「君は元気な体と心で、生きていってほしい」
「私は」
 生きていたくない、とあなたに言うことを、喉は拒否した。そんな裏切りは許さない。ここまで生きてきた、過去の私の負けん気を、体だけは忘れずに保っていた。私は、あなたに必死で目を合わせた。
「あなたが生きていることが、私の生きる意味なんです」
 あなたは驚いたように、刹那のあいだ唇の力を抜いた。思考に空白が落ちたような目に、私の目が反射していた。
「僕も。君が生きていることが、僕にとって大切なことになったよ」
「それならっ」
「だから、約束をして欲しいんだ」
 あ。
 私は体中の力が、抜けていくのを感じた。私の内側と、体の内側の繋がっていた、ひっついていた面が、音もなく乖離する。よく椅子から転げ落ちないでいる。端っこの私が、そんな風に感心していた。
「僕が、死んでも。十年、生きてみてよ」
「じゅうねん」
「あっという間だよ」
「そうは、おもえません」
「僕が、君に出会うまで待った時間はもっとだった」
 あなたはまた笑った。小さな子供を安心させるような笑い方だ。瞬きもできないまま、私は言葉のなかで、もがいた。
「じゅうねん、いきたら、しんでもいいんですね」
 あなたの顔に走り抜けるものがあった。斜めに、あなたの顎下から目の横を、走り抜ける青い炎のような、感情が見えた。それは悲しみと言うには、あまりにやわく、儚かった。
「君に、生きていて欲しい。十年生きれば、君の中に、僕以外の世界との接着部分が育つよ。君は誰かを愛していい。君は幸せになっていい。そうして君が、僕を少しずつ心のなかに沈められるようになる。そのための十年を、僕に免じて、君に押しつけさせてください」
 あなた言葉が、また私の脳髄を焼いた。しっかりと刻まれたそこに、乖離した内側が触った。深く抉られたようなその模様に、私は泣くことができなかった。
 ああ。
 私はまた、十年を生きるのか。
 そのあと私は、いったいあなたになんとお別れを口にしたのか思い出せなかった。
 今度こそはと夢をみたことが、余計に体を重たくした。体の判断に任せた内側は、疲れて眠ってしまった幼子のように重たく、振り払えないほど密着して、すべてを放棄していた。 
 
 

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