変身ポーズ_t

第1話 小説家・小林敏生の変身

 赤い季節が到来を告げ、アスファルトがじりじりと焦がれている。勤め先の編集プロダクションがある新宿から中央線でほど近い、高円寺の街角は狂ったようにきらきらと、若者たちが発する何らかのエネルギーに満ちている。それはいつものように俺を悔しくてたまらなくさせる。


 俺は夢を見ていた。昨晩は冷房の風を直接浴びながらソファで寝落ちしてしまっていたらしく、身体が軋んだ。ハッとして痛みをこらえながら身を起こす。昨夜のまま、ガラステーブルの上にパソコンはあった。あわてて手を伸ばし、かちゃかちゃとキーを叩く。立ち上がった画面が昨夜まで書き上げた場面までの小説のプロットを映す。俺はそこでやっと安心する。よかった、保存できてる。どこに発表も投稿もする予定のない、俺だけのスーパーヒーローの物語。


 高円寺駅から徒歩10分という立地で選んだ築三十年のアパートは期待外れず、夏は暑く冬は寒い。結果、寝に帰るだけになる。
高円寺は地方から何者かを目指して演劇やら、映画やらアートやらに明け暮れる若者がなぜか多く、飲み屋も彼らをあたたかく受け入れていて、俺はそのぬるま湯につかるのを恐れて近寄れずにいた。それがとても居心地がよさそうだったからだ。


 冷房で過剰に冷やされた空気の中立ち上がり、床に散らかった週刊漫画雑誌やビールやコーラの空き缶を蹴飛ばしながら洗面所に向かい、歯を磨く。口が臭い。空気も悪い。洗面所の窓を開ける。アルミサッシに埃が詰まっていてガタガタいい、力いっぱい窓を開けたところで窓の外、目線と同じ高さのところを調度黄色いラインの総武線が通過し、アパート全体がガタガタガタ、と音を立てて揺れる。何度聞いてもたじろいでしまう。ごまかすように音をたててゆすいだ口から水を吐き出すと、吐き出した先の排水溝から下水の臭いがした。


 俺は夢を見ていた。何度も何度もリピートして見たくせに全く色褪せず、むしろ鮮やかさを増す、5歳の時、最後に井上安子に別れを告げたときの夢。おい小林敏生、お前24歳だろ、いいかげんやばいぞ、と鏡の自分に心の中で言い聞かせるが、鏡の中の俺は流行りのイケメンとは程遠い童顔で、むしろ5歳の時のときの面影を強く残していた。


 幼稚園でのお別れ会で、井上安子は俺と離れるのが嫌だと泣きじゃくった。お別れ会のために色紙で作った色とりどりの鎖状の飾りも、ピンクと白の薄紙で作った花飾りも、他の園児たちがコイビトだ、カップルだ、とはやし立てたのもよく覚えている。俺は他の園児たちの視線を気にしてつれない反応をした。
思えば、まだ5歳の男児・小林敏生は、「おわかれかい」も「おうちのじじょう」もよくわかっていなかった。
 その後、帰宅したあとだったと思う。井上安子は母親に連れられて俺の家を訪ねてきた。
井上安子の母親はベージュのワンピースを着ていて、品のいい真珠のイヤリングをつけていて、良い匂いがした。俺の家の玄関で、母親たちは随分長いこと話し込んでいた。

「やすこのピンクのおりがみ、ぜんぶあげる」

 井上安子は相変わらず泣きじゃくっていた。泣きじゃくりながら、黄色い通園バッグからピンク色の折り紙で折った、ハートや鶴やウサギをいくつも出した。俺は本当にそれを幼稚園で出されなくて良かったと思った。

「やっちゃん、そろそろ帰りましょう」

「やだ、としきくんとバイバイしたくない」

「こら。ちゃんと敏生くんにおわかれのプレゼント渡したらいい子にするって約束だったでしょう。ほら、敏生くんも、敏生くんのママも困っちゃうよ」

「やあああだあああ」

「ほら、敏ちゃん。安子ちゃんにありがとうは?せっかく敏ちゃんに最後に会いに来てくれたんだから、何か言いなさい」

 正直、5歳児・小林敏生は泣きじゃくる女児と、オカン2人に囲まれて言葉を失っていた。24歳になった今だって、もし女3人に囲まれたら気後れして言葉選びは慎重になる。
 5歳児・小林敏生は考えた。この場をなんとかやり過ごすには、井上安子を泣き止ませなくてはならない。なんだろう、井上安子が大切にしていたピンクの折り紙のお礼に何かプレゼントすればいいんだろうか。俺の宝物は誕生日にもらったファイブレンジャーロボがあるけれど、それは絶対あげたくない。じゃあ、ケッコンしようとか言えばいいんだろうか。いや、5歳の俺にはそれは無理だ。もっと大人になって、強い男になったらケッコンもできるかもしれない。

「やすこちゃん」

「なに?」

「オレ、小学校を出たらファイブレンジャーレッドになるんだ。そしたら、ケッコンしよう」

 一瞬の間があった。
 最初にあははははは、と堰を切ったように爆笑したのは母親2人だった。よかった、敏生くんもまんざらじゃなかったのね、と井上安子の母親が言った。俺はたぶん何か失言をしたことに気付いたが、押し黙った。顔が炎のように赤くなり、温度を上げていくのがわかった。

「としきくん、あのね」

 井上安子は泣き止んでいた。今思えば、男児に比べて女児の精神的成長は圧倒的早い。早熟な5歳の女児ならサンタがいないことも、大人になってもファイブレンジャーにはなれないこともわかっていたと思う。

「なに?やすこちゃん」

「としきくん、――――、―――。――――――。―――。」

 最後に、井上安子が何と言ったのかそれだけが思い出せず、今でも俺はその時のことを夢に見てしまう。
 その後、井上安子とは母親同士が仲良くなったこともあり、文通することになった。最初はお互いがクレヨンで絵を描いたはがきを送りあう程度だったが、次第に字が書けるようになり、意外にも長く続いた文通はメールとなり、小学校、中学校と続いた。次第に、井上安子は大手芸能事務所の子役オーディションに合格し、神奈川から東京に引っ越したのだということがわかった。カメラマンに撮ってもらった写りの良い写真が添付されてきたこともある。メイクを施され、アイドルのような衣装とポーズできめた井上安子が実はかなり可愛かったことに10歳児・小林敏生は気づいた。売れてほしいと、心から思った。
 だが、高校生になり、バイトをし小金を手に入れ、神奈川東京間は意外と近いことに気付いたとき、次第にメールの頻度は減っていった。
 冷蔵庫から、アパート近くのコンビニで買ったパックのウーロン茶と、チョコチップ入りの細長いパンがたくさん入った袋を取り出す。がさがさとちぎって口に放り込みながら、ソファに座り、テレビをつける。

「本日のゲストは、女優の井上エリスさんです」

 調度、日曜お昼のトーク番組のゲスト紹介の場面だった。テレビに映った24歳の正統派の女優は、ライトに照らされて、ゆるく巻いた柔らかな茶髪と、流行りのシャーベットブルーのワンピースを揺らしながら、出演し、今度公開される恋愛映画について楽しそうに話していた。女優がほほ笑むたび、彼女の色素の薄い茶色い瞳が輝き、耳元でクリスタルのロングピアスが振り子のように揺れた。

「…何がエリスだよ」

 そう、俺の願いは叶い、井上安子は売れた。井上エリスを名乗り、CM女王、最近では実力派女優と紹介されることもある。
 そんなとき、俺はどうしてもファイブレンジャーレッドになれなかった俺を嘆いてしまう。自意識過剰だってことはわかっている。才能と環境に恵まれ、きちんと努力してきた井上エリスと、24歳、就職活動に失敗し彼女なし、なんとか学生時代からのバイトのつてで編プロにしがみついている俺を比べるのはおかしい。だが、もうちょっと他になかったのか。
 あの時、確かに俺は本気だった。強く、たくましい一人前の男になって、井上安子はもちろん、チームを率いるリーダーになるつもりで、ケッコンしよう、というのは約束のつもりだったのだ。ただ結果として、それは嘘になってしまった。結果として、俺は、ただの嘘吐き野郎で、あの約束は可愛らしい5歳児のたわごとになってしまったのだった。男に、二言はあってはならないはずなのに。


ここまで読んでいただきありがとうございます。いただいたサポートは、大切に日本文学発展&クリエーター応援に還元していきます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。