秋田の銀線細工について
こんにちは。秋田県由利本荘市でごてんまりを作っています〈ゆりてまり〉です。
先日行われたトークイベントで、秋田の銀線細工に興味を持ちました。
秋田市で有名な銀線細工は、県指定の伝統的工芸品です。
本当にざっくりしたものではありますが、秋田の銀線細工について調べてみたことをまとめていきます。
〜秋田の銀線細工まとめ〜
秋田の銀線細工を特徴づけるのは、その純度の高さである。
材料は、1,000分比で9,999とほとんど不純物を含まない純銀を使う。純度の高い銀を使うことにより、繊細で優美な細工が可能になる。
海外の銀線細工は925銀(1,000分比で純銀を925、銅を75含む)を使用している場合が多い。たとえばオリンピックの金メダルと銀メダルの素材がこれにあたる。
秋田にいつ銀線細工の技法が伝わり、作り始めたのかは正直よく分からない。
1602年に、初代秋田藩主佐竹義宣公が常陸から秋田へ移付し、金銀細工師(白銀師)も随従してきた。それが始まりだとする意見もある。
秋田では1606年に院内銀山が開山、次いで阿仁銅山が開山し、国内でも有数の金銀銅の生産地となった。
歴代藩主の管理の元、貴金属の加工がさかんに行われ、刀や刀装金具・武具・甲冑などの製作に関わる工人たちが活躍した。
しかしその頃から0.2mmの銀線を用いて線条細工するというような、現在の銀線細工の技法があったかは不明である。
そもそも秋田に限らず、金銀細工の歴史は詳細に特定することが極めて難しいという事情がある。
金や銀は100%リサイクル可能な素材であり、いつの時代にも高い金銭的価値を持つ。
ゴミとして放置されるわけもないから、加工の現場に痕跡を残さないし、持ち主が経済的に困窮すれば簡単に鋳潰されてしまう。盗まれることもよくある。
海外にはフィリグリー(filigree)という、金属線の可鍛性を活用した線条細工がある。しかしヨーロッパ中で長く行われてきたため、フィリグリーを用いて作品の制作時期を特定することはできない。
ヨーロッパ以外にも、北アフリカやトルコ、北欧や東欧、スペインやポルトガル、東南アジア、南米などに小さな銀線細工の村や民芸品が各所に残っている。
世界に広まっているフィリグリーの技法が、どのタイミングで日本に伝播したのかは分かっていない。
よく言われているのは、1550 年にポルトガル船が平戸(長崎県平戸市)に初入港し、貿易を行っていた期間に技法が伝えられたのではないかという説である。
今でも、銀線細工に使う渦巻き状のパーツのことを「ヒラト」と呼ぶらしい。
秋田の銀線細工は、江戸時代の金銀細工にルーツを持ちながらも、明治から昭和にかけて現在の形になっていったと考えられる。
1940(昭和15)年に銀製品が奢侈品等製造販売制限規制(7・7禁止令)の対象となり、製造販売禁止となるなど、一時は技術が断絶しかけたこともあったらしい。
それでも特に明治後期から昭和にかけては、秋田市に工芸の指導所なども設置されて、技術者の育成がはかられてきた。
そして1996(平成8)年2月26日、秋田銀線部会(株)竹谷本店、(株)細川貴金属店、金銀線工房しんどう、和田貴金属店、(有)伊藤貴金属店、銀線細工すとう、篠田宝飾、豊島宝飾)は、「秋田県伝統的工芸品」に指定された。
以上が、ざっくり調べて分かったところです。
秋田の銀線細工の大枠は、明治から昭和にかけて作られたというところまでは分かりました。
しかし近代以後の情報がまだ全然調べ足りていません。
由利本荘市で手に入る文献ではこのくらいが限界と思うので、今度秋田市に行って調査しようかなと思っています。
秋田の工芸品を紹介した本の中には、「秋田の銀線細工の歴史は佐竹義宣に随従してきた金銀細工師が始まり」と書いてあるものもあったのですが、秋田市で銀線細工を実際に製作、販売しているお店のサイトには、江戸時代の金銀細工と今の銀線細工は分けて考える必要があるという論調が多いため、今回のまとめでは「しかしその頃から0.2mmの銀線を用いて線条細工するというような、現在の銀線細工の技法があったかは不明である」という言い方にしました。
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◯参考文献と参考にしたサイト
村上隆『金・銀・銅の日本史』2007年 岩波書店
秋山勝義、飯野一郎『彫金〈手づくりジュエリー〉の技法と知識』2012年 東京堂出版
秋田の宝・おらほの宝―地域の文化遺産発見―事業『お宝発見ハンドブック工芸技術編』2007年
秋田県教育委員会
『別冊太陽 アンティークジュエリー美術館』2017年 平凡社
金森正也『秋田藩の政治と社会』1992年 無明舎出版
金森正也『近世秋田の町人社会』1998年 無明舎出版
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