「地域活性化にはよそ者・若者・馬鹿者が必要」というのは本当か

こんにちは。秋田県由利本荘市でごてんまりを作っています〈ゆりてまり〉です。

皆さん、地域活性化にまつわる言説で「よそ者・若者・馬鹿者」が必要だとする理論があるのをご存じでしょうか。
木下斉さんのまとめ方が分かりやすかったので、引用させていただきますね。

これが起源ははっきりとしないわけですが、私が商店街活性化、地域活性化などと言われる分野に関わるようになった20年前にはすでにこの言葉は使われていた記憶があります。
意図的には、地域活性化には、
・外の世界から相対的に地元をみて企画を組み立てる人
・従来の常識に縛られない行動力ある若者
・バカとも思える思い切った行動をやる地元の人
が組み合わさると良い、ということで、それ自体は別に確かにそういうときもあるよね、くらいです。しかしながら、この組み合わせが金科玉条のように語られ、そういう人がないから地域活性化が出来ない、という話にまで発展すると、それは違うんじゃない、と言いたくなるところ。

わたしが活動している秋田県由利本荘市は、東北の田舎町のひとつで、少子高齢化と人口流出がとまらない地域です。
「地域活性化」が常に叫ばれる地域でもあります。
こういった環境で、地域の伝統工芸品であるごてんまりに携わっていると、(正確には伝統工芸品ではないのですが)例の「よそ者・若者・馬鹿者」理論を持ち出されることがよくあります。

「やっぱり一旦都会に出て、外部の目線を持った人は違うよね」
「やっぱり若い人でないと、こういうことはできないよね」

わたしが地域で活動できている理由を「Uターン者だから」「若いから」というところに求める人は大変多いです。
「よそ者・若者・馬鹿者」という言葉をはっきりと使っているわけではありませんが、地域活動の理由を「Uターン者だから・若いから」というところに求めている点で、これらの褒め言葉は「よそ者・若者・馬鹿者」理論と同じと言えます。
さすがに面と向かって「あなたはバカだからこんなことができるのね」という人は(今のところ)いません。



では、この「地域活性にはよそ者・若者・馬鹿者が必要」という理論は本当なのでしょうか。
妥当性はあるのでしょうか?

結論から言うと、本当ではありません。
狭間 諒多朗さん2013年の論文「地域社会における文化活動の担い手――「地域社会と文化活動についての全国調査」を用いた回帰分析――」という、地域活動の担い手を定住者、Iターン者、Uターン者の三つに分け、誰が地域活動の担い手か、またどのくらい重要な役割を果たしているのか統計的に分析した研究があります。

カテゴリカルな変数である地域移動変数を独立変数に、連続変量である参加頻度、活動役割重要度を従属変数として分散分析を行ったところ、「地域移動と参加役割、活動役割重要度との間に関連があるとはいえなかった」(P.9-10)そうです。
つまり「地域活性化にはよそ者が必要」という理論は、妥当性がないということです。

苅谷剛彦監修『「地元」の文化力――地域の未来のつくりかた』(河出書房新社、2014年)という本でも同じことが言われています。

こうしたUターンやIターンをする人びとの移動の理由の一つとして、文化活動への参加を位置づけようとしたのである。それはまた、こうした移動者が地域文化の担い手として重要な位置を占めているのではないかという仮説でもあった。
しかし、調査を進めるとすぐに、こうした「文化誘因説」が強くは当てはまらないことが明らかとなった。(p.4)

この本で扱っている地域対象地と文化活動は、岩手県遠野市(遠野物語ファンタジー[市民参加型演劇])、長野県飯田市(いいだ人形劇フェスタ[交流型イベント機会提供])、北海道壮瞥町(昭和新山国際雪合戦[国際競技])、沖縄県那覇市(琉球國祭り太鼓[創作演舞集団])、茨城県取手市(取手アートプロジェクト)の5つです。

この5つの中で、明瞭に「よそ者」がリーダー的役割を果たしているのは琉球國祭り太鼓くらいのもので、遠野物語ファンタジー、昭和新山国際雪合戦などは、地元に住むキャリアの長い参加者たちが中心になって活動を行っています。
地元に住むキャリアの長い人、といえば若い人よりも年長者が当然有利になります。
このように成功した事例を見ても、決して「よそ者」や「若者」が主体で動いている地域活動ばかりではないことが分かります。


にもかかわらず、なぜ「地域活性化にはよそ者・若者・馬鹿者が必要」という理論がまかり通ってしまうのでしょう。
それは先に紹介したnoteの記事で木下さんも仰っていることですが、「流行ったのは、多くの人にとっての「都合の良い『言い訳』」になるから」だと思います。

残念ながら人間は楽をしたくなる生き物です。
「地域活性化にはよそ者・若者・馬鹿者が必要」という理論は、翻って「それに当てはまらない自分はだから行動しなくてよい」という言い訳になります。
行動したくない、楽をしたい人にとっては大変ありがたい言葉です。
だから「そんなのことはありません。あなたにもできますよ」と言ったところで、納得することはおろか、全く歓迎されません。

「いやいや、無理ですよ。だってわたしは外に出たことがない(または若くない)んだから」
多くの場合、即答でいただく言葉です。
これは無意味な繰り返し(トートロジー)を生むだけです。
わたしは二つの理由で「よそ者・若者・馬鹿者」理論を使うべきではないと考えます。

第一に妥当性がないからです。
嘘の情報を広めてはいけません。
第二に、これが一番恐ろしいのですが、実際に行動している人のモチベーションを劇的に低下させてしまう要因になるからです。

「やっぱり一旦都会に出て、外部の目線を持った人は違うよね」
「やっぱり若い人でないと、こういうことはできないよね」

これは褒め言葉として使っているのは分かります。
しかし「外部の目線を持った人でないと」「若い人でないと」と言うとき、その人の言葉は「だからそうでないわたしはやらなくていい」というエクスキューズになり得ます。
そして次に「だからこそわたしではなく、外に出たことがある、(もしくは若い)あなたがやるべき」という大変押しつけがましい主張にも簡単に結びつきます。
言われているほうは、その人が行動しない都合のいい言い訳に使われている理不尽さと、一方的に主張を押しつけられる迷惑をダブルで味わうことになります。

これでは、それまで自主的に行っていた地域活動が、押しつけでやらされているような感覚に陥りかねません。
やりたいからやっているときと、やらされているからやっているときでは、当たり前ですがやる気が全く違います。
「これはわたしのやりたいことだろうか? 押しつけでやらされているのではないだろうか?」そんなふうに実際に行動していた人が自分の活動に疑問を持ち、やる気を失って、地域活動そのものをやめることになってしまったら、大変な損失です。
実際に行動している人のモチベーションを劇的に低下させてしまう要因になり得る、というのはこういうことです。

その人の地域活動を褒めたいのであれば、その人の活動自体に注目して素晴らしいポイントを探せばいいはず
です。
「若いから」「移動者だから」という点にばかり着目するのはやめて、もっとストレートに褒めたらいいのにと思います。

「若い/若くない」「地元/移動者」に関わらず、地域活動したい人はすればいいですし、その分け方によって「活動に向く人/向かない人」を切り分けるのは変な話です。
「よそ者・若者・馬鹿者」理論は、地域活動において行動しない人には都合のいい言い訳を用意し、実際に行動している人にはモチベーションを劇的に下げてしまいかねない、大変困ったものだと言えます。
しかし何故こんなにも使われているのかと言えば、繰り返しにはなってしまいますが、やはり多くの人にとって「都合のいい言い訳」になるからでしょう。
一言で言うと、便利な言葉だからです。
便利なものはやめるのが本当に大変です。
困ったものですが、わたしのように実際に地域で活動し、これからも活動を続けていきたい人にとっては、無視はできず乗り越えなければいけない課題です。

次回の投稿では、ではどうやって「よそ者・若者・馬鹿者」理論を乗り越えるべきか、を具体的に考えたいと思います。


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