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「負け」の哲学

「自分には限界があると思ったほうがいいよ。自分のためにも、相手のためにも。万能であろうとしないほうがいい」

今週のとある日、私は仕事のことで行き詰まってしまい、夜、途方に暮れていた。簡単にいうと、板挟み状態になった。後輩(部下)の仕事に対し、一度はOKを出し、手続きを踏んで完成まで持っていったものの、上司(トップ層)から突然の横槍が入り、修正を求められたのだ。

正直な話、そんなことはよくあることで(決していいことではないけれど)、求められた修正に対し十分に応えるためには、かなりのやり直しが必要だったが、めちゃくちゃな要求かというと一理あると感じられる部分があり、私としては一度は修正に応じざるをえないという気持ちになった(もちろん、完成させた仕事には自信があったが)。

しかし、下の者たちに対して説明責任を果たすことは極めて難しいことであった。なぜなら、完成に至るまでのプロセスで手続きはきちんと踏んでいるからであり、突然の横槍はあくまでも横槍なのであって、上層部が修正を求めるのにふさわしい時期はとっくの昔に過ぎている。「この期に及んで今更何を!」という気になって当然であり、その意味では、彼らのアクションは手続き的に瑕疵があると考えられた。

案の定、下の人々は納得することができず、かといって上層部とは長時間にわたって話し合ってもいわゆる「ゼロ回答」で、なんの成果も得られない。

どうする、俺・・!! なんでこんなことになった・・!! 文字通り頭を抱えることになった。

そんなとき、とある信頼できる先輩のことが脳裏をよぎり、時刻にして夜11時近くだったが携帯に電話をかけた。非礼を詫びながら、愚痴を聞いてもらったところ、先輩が伝えてくれたことが冒頭の言葉である。

「自分には限界があると思ったほうがいいよ。自分のためにも、相手のためにも。万能であろうとしないほうがいい」

ハッとさせられた。

「仕事の内容面と、手続き面で2つポイントがあるとすれば、内容面で戦っても多分勝ち目はなさそう。だから、手続き面の瑕疵について改めて抗議を申し入れるくらいしかできないかもしれない。それで、そのことを正直に下に伝えるしかない。自分は決して万能ではなく、ここまではやったけど、それが限界だったと」

「そうすることで、もしかしたら部下は傷つくかもしれないし、不信感を抱くかもしれない。もしかしたら、わかってくれるかもしれない。それは、やってみないとわからないけど、委ねるしかない。大事なのは、万能であろうとして無理したり、虚勢を張ったりしてはダメだということ。人間って、誰しも欠点があったり、有限な存在なのだから、限界を認めて、その範囲で頑張ることが大切なんじゃないかな」

ものすごく的を射ているように聞こえ、一気に心が楽になった。たしかに、私の心のどこかにはあったのだ。部下の者たちに愛されたい、嫌われたくない、いざという時に頼りになる存在でいたい・・・、そんな気持ちが。しかし、この状況の中では、上司を説得したり、あるいは誰もが納得できるウルトラCの回答を導き出したりすることはもはや難しかった。私が頭を抱えていた思いの一部には、下からの期待に応えられず、認められなくなるのではないか・・という不安や恐れの気持ちがあったのだ。

でも、自分の中にそうした気持ちがあることを確認できたとき、逆にスッと心が軽くなった。自分はどうすればいいのか・・という悩みから、承認欲求の下心を差し引いて考えることができたのだ。そしてそれは、先輩が伝えてくれたように、できるところまで頑張って、それが限界だったと伝えることだった。

先輩も言っていたように、もしかしたらそれで部下は失望して私の元から去っていくかもしれないし、こうした考え方自体が「負けの哲学」なのかもしれない。島耕作や漫画の主人公なら、ヒーローとして切り抜けられるのかも。ただ、自分がヒーローであることは、部下にとってもよくないのだ。なぜなら、私に頼めばなんとかなる、という思考もまた、考えものだからである。

日本の片田舎の小さな組織で起きた、ありふれた出来事にあっても、私は、このような学びを得ることができたのは、せめてもの救いになったと思っている。

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