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【#創作大賞2024】作文は誰のものか ~トマトジュースが好きな子供の消された想い

初っ端から私事で恐縮だが、日頃からよく公募に参戦している。1000文字に満たない掌編・ショートショートから500枚近い長編まで、それはもう様々に。書き手界隈で俗に「ガチ公募勢」と呼ばれる人種だ。

だが出した数が、受賞の頻度に比例するとはいかないのがこの世界。100本出して1本も通らないこともあるし、初めて出した人がその最初の1作で、ひょんと大きな賞を受賞することもある。
面白くて、残酷な世界。それが公募の醍醐味……と言えるほどには、まだ私のはらは練れていない。悪しからず。

そうして公募参戦を繰り返していると、必ずと言っていいぐらいぶつかる壁がある。いや公募じゃなくとも、誰かに読んでもらうことを前提とした小説投稿サイトでも同じかもしれない。
曰く、


「書きたいものを書くべきか、読者が読みたいと思うものを書くべきか」


いかがだろう。「それな」と思った書き手の方も多いのではないだろうか。

世間の読者が喜ぶものを、という意味に加えて、公募組の場合はその読者の中に「審査員」も含まれる。有態に言えば「審査員受けするかどうか」という生々しい基準だ。
かく言う私も、今回『創作大賞2024』に参戦するにあたり、参加メディア様のコメントに全部目を通して(小説ジャンルのみだが)重要と思われるポイントをざっとまとめてみた。
すると、やはりよく挙げられている。

「自分が本当に書きたいと思うものを書くことが重要」
「いま、どんな作品が求められているか、考えぬいて」
「書きたいものを書くことも大事だが、読者目線を忘れずに執筆することがポイント」

一見すると、真逆にも見えるコメントの数々。書き手の中には「むきーーーーっ、どっちでい!!!」とキレたくなる人もいるかもしれない。

結論から言えば、「どっちも重要」という、本当に身も蓋もない回答に辿り着くのではないかと思う。
ただその両者のブレンド具合は、賞・人・メディアによって様々だ。
プロの作家の方でも、市場のニーズをよく判っていて、読者の求める話を次々と量産できるタイプの天才もいれば、誰も想像すらしなかった視点で振り切った作品を市場に電撃投下する天才もいる。

だから私のような末端の公募勢も、その賞で求められているものを見定めながら、その時その時で拙い匙加減をするしかないと考えている。公募に参戦するようになって早や6年が経ったが、ようやくこんな基本的なことが少しだけ判るようになってきた。

だがもう一つ、自分が心に置いている決め事がある。それは

「書くものが自分の物語であること」

平たく言えば「他者の書いた物語を借りたものではない」ということだ。どれほど巷にあふれる手垢のついた題材であっても、自らが感じ、自らの言葉で綴ったものであること。
小説としての巧拙はともかく、それだけは譲れない一線だ。誰かの文章に影響されることはあっても、その物語を意図して模倣するような真似だけはすまい。

ずいぶん肩に力が入っていて恥ずかしい限りだが、受賞の機会から遠ざかっている時の焦りは、時に危険な誘惑を呼び込んでくる。そんな時に自分を正気に保つ唯一のくびきが、その約束事なのだ。
私がそう思うに至る理由の一つに、遠い昔、子供の頃の苦い経験がある。


それは私が小学校3年生ぐらいの時の話だ。

「しーちゃん、これ出してみない?」

夏休みのある日、母が何やらチラシを見せてきた。それは学校の宿題ではなく、夏休みに一般企業が子供向けに募集した作文コンクールの案内だった。
テーマは『トマトジュースについて、自由に書いて下さい』みたいな感じだったと記憶している。
どこの企業様か何となく想像がついてしまうかもしれないが、今から何十年も前の話なので、諸々時効ということでお許し願いたい。

当時10歳にも満たない私に、なぜ母がこの作文を勧めたかは判らない。本とトマトジュースの好きな娘なら、なんか書くだろうと思ったのだろうか。

そう、その頃から私はトマトジュースが大好きだったのだ。
元々トマトが好きだった。単純な話、野菜の中では最も果物っぽい感じがしたものだから。一方トマトジュースは、当初ちょっと敬遠ぎみだった。赤くてどろっとしていて、飲み終わった後、グラスの壁にてろてろとしたスジが残るのが何か嫌だった記憶がある。

ところが何の因果か、ある時から突然トマトジュースが好きになった。コドモあるあるの話だ。
たぶん普通のトマト以上に濃厚な味わいであることに気づいたからだと思う。それに塩分のせいか、暑い夏に飲むと爽快な気分になるのも効いたのかもしれない。

母親に乗せられた私は、さっそく書き始めた。つくづく単純である。恐らく賞品の図書券(当時はカードではない)と、参加賞のトマトジュースにつられたのだと思われる。
今から思うと、これが人生初の公募デビューだったと言えなくもない。

作文の内容はもう細かく覚えていないが、大体は以下のような趣旨だ。

『最初は苦手だったけど、飲んでみたらものすごく美味しくて、今はとても好きになった。味や食感が普通のジュースとは違うのも新鮮だった。友達の中にはトマトジュースが嫌いな子もいるけれど、自分は大好きだ』

もちろん使っている単語はもっと拙いものだ。
だが当時は果汁100%のジュースはほとんどなかったし、甘いジュースと違ってちょっと塩っぽいというのも独特で、新鮮な印象だったのは確かだ。
(その頃は食塩無添加のトマトジュースはなかった)
そしてまわりの友達の中に、トマトジュースが好きな子が少なかったことも事実である。中には「気持ち悪い」とまで言う子もいたぐらいだった。


ところが、出来上がった作文を母に読んでもらったところ、母は困った顔で眉をひそめた。

「しーちゃん。お母さん、これはよくないと思うわ」
「え、なんで?」

母親は当たり前でしょう、という顔つきで言った。

「だってトマトジュース作ってる会社に『トマトジュースが嫌いだ』なんて言ったら、会社の人はいい気はしないと思うわ」

予想外の指摘に、私はきょとんとした。

「だって今嫌いっていうわけじゃないじゃん。『嫌いだったけど飲んでみたら美味しかった、今はすごく好き』なんだから、よくない?」

「お母さんはそう思わないわ。悪いこと書いちゃだめだと思う」

私は訳が判らず、懸命に食い下がった。

「でも今好きって、すごく褒めてるじゃん。それの何がいけないの?」

子供の私が言いたかったのは、いわゆる食わず嫌いな私が飲んでみたら、その先入観を覆すほどの美味しさだった、ということを強調したかったのだと思う。
だがどうあっても、母は首を縦に振らない。ついに私もキレた。

「もういいよ。私がそう思ったんだから、それでいいじゃん」

しかし母は、なおも執拗に言い募ってきた。

「だってどうせ書くなら、賞がもらえた方がいいじゃない。だからそういう内容にしなきゃ」

もう本当に、訳が判らなかった。
確かに「賞がもらえた方がいい」のは、私とて同じだ。本好きの子供にとって図書券は喉から手が出るほど欲しい。もっとも母の「賞をもらう」は、また別の意味だったのだろうが。

でも賞をもらうために、自分の感じた素直な感情を書いてはいけない、という意味はさっぱり判らない。悪い感想ばかりではちょっと、というなら理解できないこともないが。

極端な話、悪い結論だっていいと思うのだ。それぐらい飲みにくい、という一つの意見にはなるわけだから。あとは書き方に気をつけるという意味合いで細部の言い回しを直す、というのならまだ判る。
(その内容では賞に結びつく可能性は低いだろうが)

だが審査員の心象を害さないために、子供の素直な感想を封じ込めるというやり方は、子供心に理不尽以外の何物にも思えなかった。

その後私が何度書き直しても、母は納得しない。
それはそうだろう。いちばん素直な感情の発露を禁じられた子供が、いったいどんな文章を紡ぎ出せるというのか。大人だって難しい話だ。

結局私は度重なるダメ出しに癇癪を起こし、もう書かない! と宣言した。しかし母はこの期に及んでも、せっかくだからと後に退かない。

結局私は、母が広告チラシの裏に書いた文章を書き写すという屈辱的な作業をすることになった(全部ではないが)。
その文章は子供の私の眼から見ても、いかにも文章慣れしていない大人が書いたそうろうで、言葉の言い回しもひどく不自然なものに写った。
覚えている部分だけでも、その母の文章を書いてみる。

「夏のお風呂上がりに、コップについだトマトジュースを見ると、飲むのが惜しい気もするが『エイ! 飲んでしまえ!』と思って、いっぺんに飲み……」

細かい表現は覚えていないが『エイ! 飲んでしまえ!』だけは、本当にこのままだ。正直、すごく嘘くさいと思いながら書き写していた。確か「この文章、なんかヘン」ぐらいは言って、母から小言を喰らった覚えがある。

だがこの作文を読んだ審査員の方々も、恐らく同様に感じたのではないだろうか。何しろ書いたのは、10歳にも満たない子供のはずなのだ。
『エイ! 飲んでしまえ!』は、どう見ても子供の書く文章ではない。

結果は当然、落選だった。

「しーちゃん、例のトマトジュースの作文ね。ダメだったみたい」

二学期が始まってしばらくした頃、母が気まずそうな口調で言った。母は落選した私を気遣ってくれたが、私は正直「やっぱりね」としか思わなかった。

逆にこれで入賞していたら、別の意味で屈辱的だっただろう。
そもそも大人の書いた文章を写して応募すること自体が今なら大問題だし(もちろん当時でも)、しかもそれが入賞したらもはや犯罪だ。

私はその時「もし自分の言葉で書いていたら、どんな結果だったんだろう」と心の片隅で思ったことを覚えている。それはちくりとした後悔になって、その後も私の心に残り続けた。創作におけるオリジナリティというものの重要性を知った、最初の出来事だったのかもしれない。

正直に言えば、応募した後も「もしかしたら図書券が……」と淡い期待があったことは事実だ。だがその傍らから「自分で書いたんじゃない内容で受賞したら……」という怯えのようなものが、いつも胸の奥につきまとっていた。
たぶんそれが、今の私の青くさい決め事の素なのだろう。

この子供の頃の一件は、それから何十年も経ってもいまだに忘れがたいほどの苦々しい想い出ではあるが、それでも参加賞として届いたトマトジュースの6缶パックが、とてもとても嬉しかったことを覚えている。
そしてそれ以上に、こうして文章を書くようになった自分に最低限の良識を持たせるという意味では、非常に貴重な体験であったのかもしれない。


そして幸いなことに、私は今でも本と、書くことと、トマトジュースが大好きだ。
ああ、よかった。

(了)




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