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平穏な日々はいつ終わるかわからないので会いたい人には会いに行くべき

すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。したがって君の意のままに主観を除去するがよい。するとあたかも岬をまわった船のごとく眼前にあらわれるのは、見よ、凪と、まったき静けさと、波もなき入江。

自省録第十一巻/マルクス・アウレリウス

知り人を尋ね歩く為に真夏の関東を旅してきた。

人間じんかんを四十余年生きていれば様々な事柄が起きる。

両親や自身の健康問題がわたしやあなたが今住まう土地に縛りつけることもあれば、ライフステージの変化に伴うさざなみに足をすくわれることだってある。


そうなる前に、あるいはそうなった時に後悔をしないように知り人に会いにいく。

東京という名の最後まで馴染めなかった土地に染みついた小さな思い出たちの影をぷちぷちと踏み潰しながら歩いた。

コンビニ前で瓶ビールを打ち鳴らし煽る瞬間の街頭の色彩。
都市と郊外の境目を共に走った時の静謐の時間。
グラスを持つ手の陰影。
宵の、酔いの、隙間にこぼれ出る言葉のかたち。
密林を洗うスコールのような通り雨でずぶ濡れになり妙な高揚感に包まれたこと。

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この文章を書く前に旅の詳細を3千文字ほど書き連ねている。
記憶を頼りに事実(だと己が信じる込んでいるもの)だけを都合よく書き連ねていけば文字数だけは増やせるけれどもなんだか違う気分だけが積み重なって行くので下書きに眠らせておいた。

あの違和感はなんだったのだろうか。
対象とおれの関係性のかたちはどうであれ時間や関係性という名の目に見えないものを書くことに対して怯えを感じているのかもしれないし単に億劫なだけなのかもしれないしどこかで投げかけられた言葉が遅効性の毒の様に効いているのかもしれない。

「お前は人からどう見られるかだけを考えている。」

それはそうよな、調子こきの見栄坊だしな。
でもさ、誰にだってどこかしらにそんな部分はあるぜ?

軽く切り返すことができない程度にはクリティカルな問いかけだった。

序盤にそれらしく書いたこの文章。

>コンビニ前で瓶ビールを打ち鳴らし煽る瞬間の街頭の色彩。都市と郊外の境目を共に走った時の静謐の時間。グラスを持つ手の陰影。宵の、酔いの、隙間にこぼれ出る言葉のかたち。密林を洗うスコールのような通り雨でずぶ濡れになり妙な高揚感に包まれたこと。

心に焼きついた光景を文章にしてしまった瞬間から、想い出の純度というか強度が下がるんじゃないかなと考えてしまう。

どうなんだろうね?

シンプルに文章力がないだけか。

側から見れば煮詰まっているようにしか見えのだろうなと思うのですが色々な視座を己の中に取り込んで少しでも内面にある厭世感を燻蒸できればなと考えている次第です。
しかしながら生来の気質は中々に拭い難い。

例え世界の8割が悪い冗談で構成されているのだとしても残り2割の何かしらの光をあてて行きたいなあ生きたいなあ逝きたいなあ。

ここ数日の間、不摂生が続きましたし日常に戻りまた走り回ったり重りを持ち上げて体を鍛えようと思います。

以上。

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