入院生活からわかったもの②
私の入院生活は、変形した左足の股関節を切除して人工関節に置き換えるという手術を終えると、その後の日々の時間は、定期的に薬を注入する注射、レントゲンそして血液検査等を除くと後は、そのほとんどがリハビリである。
プールにおいて水中でのリハビリと室内でのリハビリそして杖で歩行訓練等がほとんどである。
リハビリが難しいのは、右肩上がりで好転せず、一進一退を繰り返して次第によくなっていくのであろう。
その回復スビートも遅く、緩やかなのでモチベーションの維持がなかなか難しい。
入院の期間は、52日間であったが、1週間前から、ドクターから、「退院して大丈夫」という見解が示されていた。
私は、大殿筋という左腰回りの筋肉に痛みがあり、回復していないこと、そして退院しても一人暮らしであることを考慮すると、この時点での退院には消極的であった。
ドクターは、「帰宅して様々な用事をしている中で次第に回復してくるから」ということで、そこには、ある種の水掛け論的相違があった。
何故、そのような見解の相違が生じるのであろうか。
そこには、素人である私のような人間が思う退院に値する「健康」というものの意味と専門家であるドクターが考える「健康」という意味に大きな相違があるように思えてならない。
西洋医学的には、長年、痛みで苦しんできた変形した股関節を切除して人工関節に置換すれば、私の健康が回復できたということかもしれない。
確かにその観点からは置換手術は成功したと言えるかもしれないが、現実には左の大殿筋に痛みが残っているのである。
病気をもたらしている患部の手術がうまくいけば、成功といえるだろうが、それではあまりにも部分最適的な価値観に過ぎないのではないだろうか?
「どうも違和感がある」「歩くと痛みが生じる」等といったことは、病気の範疇には、含まれないのだろうか。
考えなければならないのは、「健康」とは、「病気では無い状態」と考えがちであるが、果たして健康とは、単に病気ではない状態だけを指すのだろうか?
本当にこうした価値観だけで「健康」というものを考えるということができるのだろうか?
「健康」の定義には、客観的且つ普遍的な一律の基準があるようには思えない。
むしろ、本人が感じる主観的な感受性こそ大切なのではないだろうか?
痛みの感じ方は人それぞれかもしれないが、自分に違和感があるという感じは、他人には決めることができない。
例えば、病院で病名がつかず、全ての数値が正常であっても「健康だと思えない」と感じる人も多いのではないだろうか。
要は、病気は定義しやすいが、健康を定義することは極めて難しいということである。
そういう意味でも健康を考えるということは、病院の中だけでは決して完結しない。
何故ならば、その人の人生や生活は、病院を離れた日常の中にこそある。
日本のように国家財政難で医療保険料も高騰を続ける中で、もっともっと医療の本質的なものまで踏み込んでを考えるべきではないだろうか。
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