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ダニ#ショートショート

この男と向い合せになってから、足が痒くてしかたがない。昨日の席替えで早野智之の前席になった青木理香は、足の痒みに悩まされていた。痒くて仕事に集中できない……。痛っ。また今、刺された気がする。休憩に立ち、トイレの個室でスカートをめくる。くるぶしにまた1つ、赤い斑点が生じている。これで両足併せて5つ目だ。

かゆみ止めを塗りつつ舌打ちした。ダニかノミだわ。パンストはダサいから生足にサンダルで来てるのに……。
「脚の綺麗な女性が好き」
先輩の岡崎琢磨がそう言っていると、藤本圭子経由で聞いた。それってきっと、私のことね。私はこの課いち脚が、いえ、脚だけじゃなくてスタイルも顔も美しい女だもの。

だから3日前、岡崎先輩の隣の席になったときからミニスカートに生足、サンダルでがんばってるのよ。素足にサンダルって足の甲とくるぶしが痛くなるんだけど、ネクスケア 靴ずれ保護テープを貼って、我慢、我慢。

「青木さん、はい、回覧板。最後だから、悪いけど課長に返しておいてね」
トイレから戻ると岡崎琢磨が理香に微笑みかけた。中川大志に似た、すてきな笑顔。ああ、きゅんきゅんしちゃう。

パソコンのソフトでカタログを作成する職場。
「先輩、このスペースに追加の冷蔵庫は絶対入りません。どうすればいいですかぁ~」
椅子を必要以上にぐいっと岡野先輩に寄せて訊いちゃう。たまに腿を先輩の太腿に押し付けたりして。きゃっ。

毎日至近距離でこの顔が見られる幸せ。それなのに、早野のせいでこの幸せが何割か引かれてしまう。

早野智之。

うちの課でもっとも早く美しく正確にカタログを作製することのできる男。同時に一番の変人。いつもよれよれのチェックのシャツとズボン。コミュ症で、話しかけても「はいー」「そうすかー」片言しか返ってこない。だからみな、目の前にいても彼への要件はメッセで送る。「目に見える文字」でしか会話が成り立たない。

昼休憩はいつもデスクの上に菓子パンを広げてむしゃむしゃ咀嚼音をさせながら食べている。そう、菓子パンを、3つも! 休憩中、彼が外に出ているのを見たことがない。この課の人間と親しく話しているのを見たこともない。食べ過ぎの上に運動もしないから、あんなデブなのよ。みっともない。

それで理香は昼食は必ず外で食べるようになった。この時期、暑くって嫌なんだけど。だって、向かいのデスクとの仕切りが低くて、汚い大口開けているあいつの顔が視界に入ってくるのよ。耐えられないじゃない? おお、いやだ。どれだけ仕事ができても、自己管理ができず見た目も最悪で、友達がいないなんて、どうしようもない人間だわ。

痒みとひどくなる刺され跡に我慢できず、終業後、理香は皮膚科に行った。
「ああ、典型的な虫刺されですね」
「なんの虫ですか?」
「この噛み口は、おそらくダニですね」

医者は理香の顔をじいっと見つめ、にやっとした。顔は綺麗だけど、汚部屋女なんだねと思っているに違いない。冗談じゃないわ!

「あ、いましたよ。ほら」

医者は理香の膝下を這っていたダニを先の丸まったピンセットで器用につまむと、それをシャーレに入れ、理香に見せた。それは理香の血をたらふく吸って、怖ろしく腹を膨らませていた。2ミリほどもあるので理香はかえってダニと気づかずゴミかほくろと思っていた。

「 ぎゃああああ~! ひぃいいいい~! 殺して、殺してえぇえええ!」

医者がシャーレのダニをピンセットの先で潰した。ぷち、と音がして、シャーレに血が飛び散った。

「はあ、はあ。……納得しました。会社に来ると痒くなるんですよ! 嫌だわ、フロアの床にこれがいるのね」

原因は早野智之に違いない。席替えの前は痒くなかったもの。私の席はフロアの一番奥の壁側。左にも後ろにも壁があるだけ。右は岡野先輩、前が早野智之。早野が菓子パンを食い散らかした屑が床に落ちてダニが発生しているのよ。デスク下のほんのわずかな隙間から、私のエリアに侵入してくるんだわ。

ほんっとうに腹立つ。〇ね!

クリニックを出ると理香はドラッグストアへ入り、ムシューダ ダニよけスプレーを購入した。これの金額もあいつに請求してやりたいわ。翌日、理香は朝早くに会社へ行った。誰もまだ来ていない。ロッカーから掃除機を出した。週に一度、掃除の日があるのだ。

掃除機で自身と早野智之のデスクの下を念入りに、ついでに岡野先輩のデスク下にもかけた。次いでダニよけスプレーをこれでもかと自身と早野のデスク下にかけていると、早野がドアを開けて入って来た。

げっこいつ、いつもこんな早く来てるの? しかもこいつのデスク下にスプレーしてるのを見られた。
「あっ……、おはようございます。なんだか掃除をしたい気分になって」
「どもー」
どもーじゃねえよ。しかもなんでいつも語尾延ばしなん!? と叫びたくなったが堪え、自分のデスクについた。

しかし就業中。やっぱり、痒い。トイレへ籠る。やっぱり噛まれてる……絶望的な気持ちになりながらクリニックで購入した痒み止めの薬を塗る。ああ、私の綺麗な脚が、虫食い後でカタカタだらけになったらどうしてくれるのよ! 我慢ならず、トイレから戻ると課長に直訴した。

「早野さんの席を替えていただけませんか? 彼のデスク下のダニが私のところまできて、噛まれるんです。仕事に集中できません」
「早野さんのところからとは言い切れないでしょ?」
「絶対彼のところからに決まってます! いつも席の上で食べているパンの屑でダニが発生してるんです。それにいつも同じ服で不潔そうだし」
「……証拠があるわけでなし、そんな理由で席替えはできないよ」

実際課長は困った。早野智之は作成能力がピカイチで、かなりややこしい案件、大至急納品が必要な案件でもいやな顔ひとつせず引き受けてくれるのだ。むしろ喜んでいるようにもみえる。ただし極度な変わり者で返ってくる返事が片言だけなので意思疎通ができず、会話はメッセでしかできない。そのメッセも「お疲れ様です」「恐れ入りますが」などの前置き言葉は一切ない。要件のみ箇条書きみたいに羅列してあるのみだ。

入社5年、彼ほどの能力なら既にリーダーになっていてもおかしくないのだが、コミュニケーション能力に難がありすぎるためさせられないのだった。リーダーになればもちろん手当もつく。しかし本人はいっこうに気にする様子はない。要するに早野は能力が創作に全振りしている人間なのである。

課長だって人間。部下の好き嫌いはある。正直、青木理香みたいなミスや不都合が生じた時の言い訳三昧の勘違いブスよりずっと早野智之のような人間を好ましく思っている。コミュ症ではあるが、反面、他人の領域にむやみに踏み込み、決めつけてああだこうだ言ったりしない人間を。

まあ早野はそれが行き過ぎている感はあるが、おれは彼にいやな思いはさせたくない。人柄はどうあれ仕事を早く正確にしてくれる便利な奴だから、という本音が正直あるけれども。
「申し訳ないけど席替えしたばかりなんで……、次の席替えまで我慢してもらえないか」
「嫌です! 脚がこんなになってるんですよ!」

理香は恥も外聞も忘れガッと脚を突き出し、虫刺されの跡を課長に見せた。いくつかは醜く水ぶくれになっていた。
「私の脚が刺され跡でカタカタだらけになったらどうしてくれるんですかあ~~~!」
知るか、と一喝したくなったが気持ちを抑えた。絶叫する理香をなだめるため、つい、課長は席替えを承諾してしまった。

早野智之が山本尚子と席を交換となった。だが、脚の痒みは収まってくれない。山本尚子は極度の綺麗好きで、しょっちゅうデスク下に掃除機をかけているし、デスクや周辺をこまめに除菌シートで拭いている。デスク上でものを食べるなんて、お菓子でさえ絶対にしない。したがってダニやその類の虫が発生するはずはないのだ。

それなのになぜ? おかしい。

3か月後、席替えとなった。
「せっかく横になれたのに、残念です」
「本当だね。残念だね」
理香は憂いと涙と媚びを含んだ目つきで岡崎琢磨を見つめた。岡崎琢磨は白い歯を見せながら、新しい席に発っていった。

すると、脚の痒みはぴたりと収まった。



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