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ヴィパッサナー瞑想体験記Day8 ~一番の幸福とは?~

心暴れる瞑想からスタート

今日も早朝4時半からの瞑想で一日がスタート。
今日はというと、ぜんっぜんダメ!!全く集中できない。。。一応ずっと座っているんですが、心の中はもうぐっちゃぐちゃでただ目をつぶって座っているだけ。

急に今受けている講座の中で、どうにも納得できない強い不満を抱えているものがあり、費用、内容、講師のあり方、オペレーション、諸々でもはや詐欺だよね!って言いたくなる気持ちを抱えており、その想いがぶわーっと湧き出てきて止まらない。

この講座へのとめどなく溢れてくる憤りは、意識を向けてみると、ムダな時間と多額の出費に対してで、さらにその奥には、「その時間を他の機会に使えたのに」「そのコストを別の投資にまわせたのに」といった「可能性」であったり「成長」というものにいかに自分が執着しているかを突きつけられる。

一旦体の感覚を感じるところではないので、呼吸に意識を向けて集中しようとするが全然ダメ。。。
初日に「ヴィパッサナー瞑想は心の手術である。心の膿が沢山出てくる」という話があったが、まさに膿は痛みだけでなく、瞑想中の雑念としても立ち現れてくる。

8日目のスタートは心の膿に飲み込まれることからスタートしました。。。

感覚と私を切り離すことで可能な創造

このヴィパッサナー瞑想は、自分の体のなかに起こる感覚に鋭敏に気づくこと(研ぎ澄まされた集中)と、そしてその感覚を私に結びつけない(感覚を客観的に観察する)をずっとしてきているわけですが、それは成人発達理論の客体化するプロセスにも通じるものがあるかもしれないですね。

感覚を「私の!」「私のもの!」としてしまうと、嫌な感覚を与えてくる人には嫌悪し攻撃するし、心地いい感覚を与えてくれる人には渇望し依存する。
でもヴィパッサナー瞑想をするといかに感覚というものが一時的に生まれては消えるものかを実感できる。そんな生まれては消えるものに対して、執着することはないということに。
そして心に関しても、初日や2日目に翻弄されたように、あっちこっち飛び回る野生の猿のようなものでいい加減。そんないい加減に移ろう心に執着して何になろうか。

それを瞑想を通して実感することで、どんな状況でも静かな水面として平静さを保てる。
この快・不快にも感覚にも反応しないことによって、反射的に問題解決に突き進むのではなく、現実をあるがまま観察し受け入れたうえで平静さを保ちながら、ロバート・キーガンの「本当に大切にしたいことを存在させようとする」ことが可能になるんだろうなぁということを感じていました。

全集中の呼吸常中へ!

8日目からは、全ての時間を瞑想しなさいという新しい指示がありました。
瞑想中だけでなく、歩いているとき、食事をしているとき、その全ての時間に研ぎ澄まされた意識で体の感覚、食事のときは喉を通ったり胃の中にはいっていく感覚、歯磨きをしているときに歯茎にあたっている感覚。

寝ているとき以外の全ての時間中に自分の内側に意識を向け続けます。
全集中・常中ですなー。

そうしてずーっと自分の感覚に意識を張り巡らせていることを継続していると、昼休みに横になったとき、体の頭のてっぺんから、足のつま先まで、肌の表面の微細なエネルギーの感覚から、体の内側の筋肉、内臓、さらには内側の微細な流れの感覚などをめちゃめちゃ感じるように!

もうわちゃわちゃした大パレードをしているディズニーランドのよう、全身で様々な感覚がうごめくのを鋭敏に感じるように。感覚への感性がどんどん研ぎ澄まされていくのを実感しました。

炎上人生

午後の瞑想は順調かというと、平静さを保ちながら体の感覚に意識を向け続けられ、ヴィパッサナー瞑想をしっかりとやれていると思うが。。。

昨日に引き続き、脚は業火のなか。。。燃え続けている。
この日はめっちゃ寒かったんです。風邪ひきそうになるくらい。でも瞑想中は脚は灼熱になっていくので、瞑想が終わるときは自分の感覚としてサウナに長く入って汗ダラダラに脚がなっている!と思うのですが、実際は汗は一切かいておらず、自分の感覚は灼熱なのに実際は寒い日だから脚は寒いという訳分からない感覚。。。

瞑想は毎回違った感覚が出てくるのですが、この灼熱の感覚は毎回登場してくるし、しかも全然生まれたあとに消えてください。
昼と夜に瞑想相談できる時間があるので、その日の夜の相談タイムに「なぜかこの灼熱の感覚だけ無常じゃなくて毎回現われてしかも消えないのはなぜですか?」と指導者に質問。

どうやら心の膿がどのように現われるかは、その心の汚濁の内容に結びついていることもあるようで、自分の場合は過去の様々な炎上がそのまま熱として立ち現れているのかもしれないですね。。。
炎上というと、不祥事、震災対応、事故対応、株価大暴落対応、などなど思い当たることがありすぎる。。。こりゃ当面この炎は消えそうにないや。(苦笑)

妙に納得してからは、この灼熱の感覚は気にならないようになったような、ならないような。

鍋のお玉vs強い決意

さてさて、そんな灼熱にも悩まされていた中で、8日目の瞑想ではさらに痛みにも変化が。
どうやらこの心の手術というものは、ある膿を除去してもその奥からまた違った膿が湧き出てくるようで、痛みにも慣れというのがしょうじない。。。

平静さをたもてるようになったから、その後の瞑想もおだやかにできているかというととんでもなく、違ったタイプの苦痛が襲ってくる。(昨日は灼熱)

今日はというと、昨日とは次元の異なる痛みが生じてきました。
それは例えるとするならば、鍋のお玉にお尻の1点だけで座っているような一点突破型の痛みであったり、脚全体は時には肌を全部引き剥がされて神経むき出しの状態で座っているような激痛であったり。

一度、足の指が太ももを突き破ったような激痛が走り、「うぎゃー!!!」と皆静かに瞑想しているなかで、絶叫して聖なる沈黙を破りそうになったり。。。

アニッチャ、アニッチャ、アニッチャ(生まれては消える)と何度も何度も心のなかで唱えてもその感覚は消えてはくれない。見かけ上は穏やかに、びくともせずに瞑想をしているように見えるように瞑想できていたと思いますが、心の中では「早く終わってくれー!!!頼む-!!!」と思いっきり渇望・嫌悪しまくっている自分。。。心臓が縮むような感覚と鼻息も時に荒くなっていく。

それでも「強い決意の瞑想」は絶対に動かない、絶対に動かない、8日目にきて動いてしまったら何が強い決意だと、心の中に安西先生を浮かべて乗り越えていました。
なぜか、この「強い決意の瞑想」は1日3回だけで時間も1時間しかないはずなのに、毎回残り15分から耐えがたい苦しみがやってきて、その苦しみは日を追う毎に厳しくなっていく。
今日は断固たる決意でなんとか乗り越えられました。。。

瞑想が終わるときにゴエンカ師の歌が数分流れるのですが、これがまた辛い。。。
鋭敏になっている脚に、その歌の音のバイブレーションを敏感に感じ取るからその振動がまた激痛を揺さぶるのなんの。
はぁ、やっと残り2日までやってきました。。。

8日目講義(一部)

ヴィパッサナー瞑想で大切なことは2つ。
・どんな感覚にも気づける研ぎ澄まされた心
・どんな感覚であっても反応しない、全てはアニッチャであるという理解のものでの完璧な平静さ

瞑想が深くなるほど、今までは粗雑な感覚を感じ取っていたのが、より微細な感覚を感じ取れるようになり、そして全ては振動・波動なのだと気づけるようになる。
そうすると、痛みなどの粗雑な感覚は、そこに意識を向け観察し続けると、粗雑な感覚が微細な泡に分解され、溶けて、そのまま流れることを感じることがあるだろう。

まさに、まさに!
背中や腰の痛みは、丸い球体のような粗雑な凝固した感覚だったものを観察し続けたら、振動し、ぽわーっと消えていくのを何度も感じたことがある。

しかし、ゴータマ・シッダッタはこれは一番危険な領域と語った。
不快な感覚が、分解され、溶けて流れるときに快に変わっていく、そうするとそこに渇望が生まれるとともに、また現われてくる痛みなどの不快な感覚に嫌悪が生じてしまう。それは新しい苦悩を生み出すことになる。
それではヴィパッサナーではない。嫌な感覚もそのまま現実としてあるがまま受け入れる、そしてそれには一切反応しないことが大切なのだ。
粗雑な感覚を観察することは、決して分解・溶解させて無くそうとコントロールするためではない。ただただ、現実をあるがまま客観的に観察するだけに過ぎないのだ。
それがそのまま粗雑な感覚としていつまでも残っていたとしてもそれがあるがままの現実。そしてどんなに快の状態であっても不快な感覚は生まれてくる。
全ては無常である、生まれては消えるの理解を深めることが重要。

はい、すいません。痛みがあったら観察して溶かそうとしてました。。。

感覚に反応してしまう心の癖を見直さないといけないのだ。
不快な感覚に反応すると、現実ではその不快な感覚を与えてきた相手に対して、嫌悪という火花が心のなかで生じる。
その火花が自分の心のなかにあるガソリンタンクに引火して爆発が起き、それにより大量の火花が生じて他のガソリンタンクがどんどん爆発の連鎖を引き起こす。
そうするとその爆発の勢いは自分の内側に留まらずに相手に火花が飛んでいく。そうすると同じように相手の中でガソリンタンクに引火し続ける爆発が起きる。
今度はお互いにガソリンの投げつけ合いが生じる。そしてお互い爆発がひどい状況になって、ふと冷静になり、「これはいけない!相手にガソリンを投げていた。本当に自分が相手に与えないといけないことは消化剤だ」と思って、消化剤を相手に投げたはずが実はそれもガソリンでさらに引火し、またガソリンの投げ合いが起こる。
そして「あぁやってしまった。なんて失敗をしてしまったのだろう。神様お許しを」と言いながら、また同じ事を繰り返す。

家にゲストがきたら、なかには手土産を持ってくる人も多いだろう。
もしその手土産を受け取らなかったとしたら、その手土産は相手の手元に残ったままになる。
私たちは現実の中で、「罵り」という手土産を相手に持っていくことがある。その手土産を受け取ってはならない。そうすれば罵りという手土産は相手の手元に残ったままになる。反応してはならないのだ。

起きている時は、意識は外の事象に向かって忙しく働いているが、心の無意識の領域は、体の感覚に向かって働いている。
そして快の感覚には渇望を、不快の感覚には嫌悪の反応を引き起こしているのだ。

反応することは、渇望・嫌悪に餌を与えるようなものである。
そうすると渇望・嫌悪は無制限に増殖していって、どんどん執着が増え、そして人生の苦悩は増していく。
ヴィパッサナー瞑想を実践することで、快も不快にも反応しなくなるので、新しい渇望・嫌悪は生み出さなくなる。
そうするとダイエットと一緒で、摂取カロリーがなくなると脂肪といった過去の蓄積をエネルギーとしていく。
同様に、渇望・嫌悪も新しいのが生み出されなくなると、過去の人生で蓄積されてきた古い渇望・嫌悪が消費されるようになる。
それによってまた違った反応が引き起こされるようになるが、アニッチャ・アニッチャ・アニッチャとそれに反応せず、完璧な平静さをたもっていると、その渇望・嫌悪は力を失って浄化される。そうして過去に蓄積された渇望・嫌悪などといった心の汚濁が少しずつ減っていくのである。
反応という心の癖を見直すのだ。

ゴータマ・シッダッタは家族のことについて大切なことを32あげたが、その最後の一つが
「人生の一番の幸福は、浮き沈みのある人生において、どんな時も平静さをたもち、心から微笑むことができること」
辛いことがあるのも現実。そんなときでもアニッチャ、これもいつかは変わる、と反応することなく平静に、そして表面ではなく心の奥底から笑顔でにこっと微笑み、そして慈愛をもって行動できることが大切なのだ。

ここにきてやっとヴィパッサナー瞑想をやっている大切な意味を理解することができました。
そしてこの「どんな辛いときでも心から微笑むことができることが幸福」というのは自分の中でズシンときました。
人生のマイナスを減らすのではなく、それがあるのもまた現実の人生。マイナスの時期であっても、心から自然と微笑み、慈愛に満ちた行動ができるようになれば、安らぎ、調和、慈愛の人生になっていきますよね。うーん、奥深い。

反応しなくなることで日常の振る舞いが変わっていく。
また、人生には苦しみがあるのも事実。ただし、悪い状況の時でも平静さを保てるようになるので、人間関係も良くなっていく。
瞑想で感じたと思うが心はいい加減なもの。過去や未来に執着しようとする。
ゴータマ・シッダッタは「今この瞬間の主であれ」と伝えた。
過去そのものは変えられない。ただし今この瞬間から改められる。

時には、人と接するうえで厳しい行動に出なければならない場面もあるだろう。例えばいじめであったり、強く叱責しなければならないこともある。
そのようなときに、自分が反応でその行動をしようとしているのか、それとも自分の感覚に研ぎ澄まされた意識を向けて、愛によってその行動を行おうとしているのかを確認することができる。
そうして反応に振り回されるのではなく、そうではないことに気づけるようになると、愛からの行動ができるようになる。
(反応が減っていくとその人の純粋な姿が見えてくる。より創造的になっていく)


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ふとユニコーンガンダム時代のブライトさんが出てきたら、自分はラクスやユウナが好きなキャラクターだったなぁと思い浮かぶ。これは一体何の反応なんだ(笑)

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