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ヴィパッサナー瞑想体験記Day9

いよいよ、9日目まできました。
昨夜の講義では、10日目は聖なる沈黙(一切コミュニケーションはとってはならない)が解禁され、また瞑想もちがうものに変わっていくので、ガッツリ瞑想ができるのは今日が最後だから、真剣にやりきることという話がありました。

早朝の瞑想は、非常に穏やかな気持ちでスタート。
心を研ぎ澄ませて、意識を体全体の肌、そして内側にまんべんなく向けていき、微細な感覚を感じ取ることに集中。
そんななかで、急に左胸のあたりがぐわーっとなり、気持ち悪さを感じる感覚が表れました。

「うっ、気持ち悪い。これは休まないと」という気持ちがよぎりましたが、「いや、ちょっと待てよ。「私」と結びつけて反応しているな。よし、客観的にこの気持ち悪さの感覚を観察してみよう」としばらく観察していてたら、5分くらいで消え去りました。
不快な感覚も生まれては消える、それを実感した出来事でした。

現実の不快な感覚との向き合い方

瞑想では、ただ感覚を観察するだけですみますが、日常生活では様々な快・不快の感覚がおしよせてきます。
「腸が煮えくりかえる」という言葉がありますが、「煮る」という言葉があるということは、反応が発火源になりますが、煮続けるための火力源が必要だわ、火力をどうするかもある。

これは一体現実だとどんな出来事が、誰が、どんな対応が、自分の反応が何によって引き起こされるかを知っておく必要がある。そしてそこに対しても嫌悪しないことが重要だなぁと。(実際は相手もまた何かをするので、それも反応しない、罵りは受け取らない)
同じように「腹の虫が治まらない」という言葉がありますが、「反応」という餌をあげ続けてしまうから、虫は元気に活動してしまう。

怒りの他に日常的にでてくる不快な感覚が「疲れ」。
疲れという感覚も「私」と結びつけることによって、身体的な疲れに反応による上乗せが加わって、「私は疲れているのだから休ませてよ!!」という風になっちゃってたぁなと。。。家に帰るとグータラモード。。。(同じ時間に飲み会だとしたら元気に行動しているのにね苦笑)

それは渇望・嫌悪を生み出して、「私はこれだけ疲れるくらい沢山頑張っているんだから疲れているに決まっている。休まないと!!もっと!もっと!」と自分が自分をダルくさせてしまっていた気もします。それはこのヴィパッサナー瞑想でも、朝4:30から21:00まで瞑想漬けだから、寝起きに「もっと寝たい、休みたい」という気持ちがぐーっとわき上がってきますが、それに流されずに行動すると朝4:00からスッキリと夜まで行動できるもんなんですよね。

と言いつつ、現実は、怒りであれば相手の言動が常に動的にあるので反応の連続になるし、疲れも追い込まれているとそこに執着したくもなる。なかなか客観的に不快な感覚をとらえて、反応しないということは非常に難しいことですが。。。(だから瞑想を習慣づけることは大切)

ありのままとリーダーシップの両立の難しさ

これはずっと考え続けているテーマで、なかなか両立が難しいと感じていたのですが、ヴィパッサナー瞑想の体験がこの両立に寄与する可能性があると感じました。

まずこのテーマについて感じていることが、「ありのまま」を優先すれば、自分の世界観を大切にすることになるので、その世界観に共感してくれる人だけがフォロワーとなる。
一方でリーダーシップとは、多様な人たちをいかにリードしていくかである。こちらを優先すれば、多様性に自分をあわせていく、適応させていくことが必要であり、それは結果として自分らしさを抑えることにもなる。

また、「私が私らしく輝けば、その伝播によってフォロワーが増える」という視点もあるでしょうが、それではその人の人間としての器次第の層しかリードできない。一方で多くの人をリードしようとすると、公人のように私を捨てて、公に尽くすということになる。

この相反する要素の架け橋に、今回の体験で感じたことが「自分らしさを尊重しつつ、他者からの快も不快も反応しない、執着しない、嫌悪しない」ということ。考えや価値観の違いによって生じる不快な感覚を乗り越えて、常に平静さを保ちながら、全ては無常だからこそいまこの瞬間に慈愛を持って善き行いをすること。そうして自分の受容が広がっていくんだなぁと感じました。
(相手から反発もあることもあるでしょうが、罵りの手土産は受け取らず、それでも愛を持って接することができる)

惨めさについて

このヴィパッサナー瞑想は、苦悩の人生から脱するための実践法であり、苦悩の一つが「望んでいたものが得られないと惨めになる」という惨めさ

ふと朝食を食べているときに、漬物を落としてしまい、ぺっぺっと手で払って食べたときに、妻や過去の恋人から「みっともないよ、意地汚いよ」と言われたシーンが浮かび上がってきました。
それが高級ステーキで「高級肉を落としたものでももっと多く食べたい!」ならそう言われても仕方ないかもしれないけど、あまり落としたからどうかというのは子供の頃から気にならなくて。

それは母親から「ぺっぺっとすれば食べられるんだから」と言われてきたからだと思うし、それだけ食べ物を大切に、落とす=ゴミとそんな考え方をするなと教わってきたんでしょうね。
もし、地震で生き埋めになったとして、目の前に落ちている食べ物があれば、誰もが生きるために食べると思うのですが、そのときに「落ちたものを食べた」と惨めな気持ちに普通はなっちゃうのかなぁ。

今では数万円もする会員制の高級焼き肉も食べに行けるようになったし、今年は衝動買いで勢いにてファミリーカーを買うなど、ゆとり持った生活ができていますが、それでも一杯の卵かけご飯に幸せを感じますし、もし死ぬ前に何を食べるか?と言われれば、妻が作ってくれただし巻き卵と真っ先に言う。生活レベルがどれだけあがろうとこれが変わることはない。

生活レベルが上がることに渇望が生まれる尾、そこに執着が生まれる。
そして生活レベルはお金が紐付き、お金はキャリアに紐付くからまたやっかいで、変動性が高いスタートアップやベンチャー、転職、独立などは変化があって当然と思えるものの、大企業のように着実に昇給する場合はそれが自分の生活レベルの前提となってくる。
そうすると、環境が少しでも悪い、評価などで反応が生じて、自らの意思でそこで働くことを選択しているにもかかわらず、「〇〇はあーだ、こーだ」になるし、結果として個人・組織が色んな減衰が生じて、共創関係になっていないところを見ることもあり、もったいなぁと感じることも。

今この瞬間をどれだけ大切にできるかをヴィパッサナー瞑想で体を通じることができました。

浮き沈みの人生とウェルビーイング

時代は変化し続ける。そしてまた人生も浮き沈みがあるのが現実。苦しみはけっして無くなることはない。

今、ウェルビーイングを学び実践している中で、このヴィパッサナー瞑想で本当に大切なことに気づかせてもらいました。
持続的幸福、ウェルビーイング。浮き沈みの中で、ウェルビーイングに固執すればそれは苦悩を生み出していく。

沈んでいるときであっても微笑むことができるだろうか。
辛いときであっても、嫌悪や憎しみ、周りに罵りではなく慈愛を持って接することができるだろうか。

この9日間、ずっと苦痛に向き合い続けたなかでも平静を保ち続ける実践を繰り返してきた中で、理屈ではなく体と心で「平静と愛」を体感することができたのが大きな経験で知恵となりました。ただまだ一つ扉を開けて一歩踏み出しただけにすぎない。旅は始まったばかり。

9日目講義(一部)

人生に苦しみがあることが現実。それから目を背ければそれは嫌悪になり、その現実を引き起こすものに対する憎しみであったり、それがない状況に対する執着となる。

ヴィパッサナー瞑想の旅は始まったばかり。
今後も実践し続けることによって、今までは怒りの時間が8時間あったものが、6時間になり、3時間になり、いつかはなくなっていく。
怒る頻度が今まで10回あったものが、8回になり、6回になり、わずかになっていく。
その時間、回数が減っていくことでどれだけ人生は豊かになっていくことだろう。

この9日間、心の手術で様々な傷口が生じていることだろう。
明日は別の瞑想法をする。それは心の傷口に塗る軟膏のようなもの。

ついに、9日間の過酷な瞑想が終わり、最終日は今までとは違った日になるようです。
長かった。。。苦痛は増し続けるばかりの日々(一方で平静さも増していきましたが)

明日の軟膏の処方が楽しみだなぁと思って、今日の内容が全部終わったら地震がくる。すごいタイミング。
さぁ最終日はどんな一日になるんだろう。


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