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ヴィパッサナー瞑想体験記Day3 ~カレー・ゼリー事件!?~

3日目も朝から憂うつな気持ちでスタート。
もう何の疲労だか分からないくらい、身体が重たい。

心の意識をより尖らせていく

3日目からアーナパーナ瞑想が一歩進んで、今までは鼻+上唇までの皮膚で呼吸(が通る感覚)に意識を向けていましたが、今度は意識する対象が変わりました。

エリア(鼻+上唇)変わらずですが、呼吸とは関係なく、その中にある感覚にだけ意識を向けることになりました。呼吸や風などの外からの刺激によるものではなく、ムズムズ・ツーンとか、痒みとか熱とかといった感覚。さらに集中しないとその感覚を感じ取ることはできません。

イメージ的に全集中の呼吸って感じ

しかも範囲は変わらず、身体のごく一部のところ。それはもはや武装色の覇気をわずかな部分にだけ発揮するようなもの。


腕全体では無く、親指だけ武装色をまとえるか?
剣全体では無く、剣の波紋の一箇所だけまとえるか?


ヴェルゴ(さん)の鼻だけ武装色をまとえるか?


痛みの悶絶度が増していく

とにもかくにも座っていることが痛いのなんの。
リラックスしてあぐらをかいている時はなんともないのに、瞑想始めた途端に痛い、背中と腰がズキズキするのです。
これは姿勢の悪さもあるだろうから、この日から背筋をピンと伸ばすことを大切にするようにしました。(より痛みが増すけど、これができないとこの先もっと痛い目みることになりそう・・・)

武道における「立つ」の重要性をイメージしながら姿勢を意識

脚のほうはというと・・・
ずーっと痛い!どんな足の組み方をしてもどうにもならない程痛い!
瞑想中、痛みはどんどんどんどん増していく。
この痛みを例えるとするならば・・・


テリーマンの得意技を延々とかけられるような痛み・・・

カレー・ゼリー事件勃発

そんな感じで、3日目にして心身共にくたくたでしたが、この日の昼食はなんとカレーライス!
しかもオレンジゼリーもついているではありませんか!!

いやいや、ちょっと待てよ。味噌汁同様に色がついているだけで、味はほとんどなんでしょ?と思ったら、しっかりカレーの濃さの味!オレンジゼリーも濃い!(これね、めっちゃ感動するくらいの出来事なんですよ泣)

「瞑想で心身ともに疲れている身体と心にエネルギーを与えなければ・・・いやいや昼食べ過ぎダメって言われたでしょ」
と心の中で格闘が起きる。
そして、オレンジゼリーは大きな器に大量に作られていたのですが、皆遠慮しがちで、2/3は残ってしまっている。単純にもったいない。

「食欲に負けるな、そのための10日間だろ!いやいや。SDGsに関わる身として、フードロスを見過ごしていいものか・・・」
と心がいい加減に暴れ出す。

最終的に、
「昨夜の講義で暴れる野生の心を調教することが大事なんだ。より調教力を高めるために、あえて食べてやるー!!そして、ゼリーに関しては別腹だ、満腹ではない!」
とたくさんのカレーとゼリーをお代わりすることに。

その後に、少しでも消化しようと筋トレをしたのもあって、午後の瞑想は眠気でコックリコックリ上半身が揺れまくることに。。。

色んな意味で心の制御って難しいのを体感した3日目でした。。。

3日目講義

3日間は呼吸を使って瞑想した。
瞑想法の中には何かをイメージして行うものがある、何かを唱えながらやるものもある、教本を読むものもある、どれも素晴らしい実践法だ。非常に役に立つ。
ではなぜこの3日間は呼吸だけを使ったのか。それはこの10日間の瞑想法の目的が、心を落ち着かせたり、集中力を高めることではなく、真実を見出す力を養うことだからだ。
イメージや唱えたりするのは、心を落ち着かせたりするのには役に立つが真実ではない。
呼吸は今この瞬間の現実そのものであり、真実だ。そこに注意深く意識を向ける力をまずは養うのだ。

ゴータマ・シッダッタは、この10日間で体験してもらう瞑想を実践して、真実にたどり着き、悟りにいたった。
悟りを開くとき、木の下でヴィパッサナー瞑想を実践していたときに、内なる真実を探り続けた結果、全ての物体もなにもかも素粒子でできているに過ぎないことを悟った。
感覚も全ては素粒子の振動とさざ波に過ぎないのだと瞑想の体験から理解した。
全ては生まれては消える、生まれては消える、変化の事象に過ぎない。
そう真実は「無常」なのだと。

私たちは、いつもある近くの川を「同じ川」として見ていることだろう。
その川で3回水を浴びたとする。バシャッ、バシャッ、バシャッと。
でもその3回とも、「同じ川」でも「同じ水」でもないのである。1回目に触れた水は既に遠くに流れている。3回とも全く違う水なのだ。
毎日同じ人などいるはずがないのだ。全ては無常、変化し続けているのだ。
人も物もいつかは生まれては消える。ダイヤのような鉱石も人の方が先に亡くなるからそれも無常である。永遠の常などないのだ。

心は、「快」なことには渇望をする。もっとほしい、もっとほしいと。それは執着となる。
そして「不快」なことには嫌悪し、憎しみとなる。
どんなことも執着しようが無常なのだ。無常こそが真実なのである。
瞑想においても、「あぁ、この日は微細なエネルギーの流れを感じた!!」と喚起して、その体験を渇望し、次の日には「あぁ、今日は感じない、自分は瞑想ダメなんだ・・・」と嫌悪する。
よい体験自体も無常(生まれては消える、変化し続けている)ということを理解しなければならない。

知恵を得るための方法は3つある。
1.他人の知識
他人の知識は非常に役が立つ。どんなことであれ、方法を知らなければ、たどり着くことはできない。ただし他人の知識だけではダメだ。
ホールで講義を聴いて「あぁ、なんて素晴らしい話しを聞いた。無常なんだ、執着が人生の苦悩を生むんだ」といったそばから、玄関で「おい!私の靴がないぞ!!誰だ私の靴を履いていったのは!」と言ったり、
大切な人が亡くなって「あぁ、現実は無常なのだ。人生には限りがあるんだ」と言ったとしても、数週間後には、「私!!私の!!」と言っている。

2.理解
理解することは人生を豊かにする。
ある例えで2人の仲のいい少年がいて、一人は生まれつき盲目で、ある日二人の会話の中で盲目な少年が「白いって何?」と質問した。
もう一人の少年は、アヒルを捕まえてきて「これだよ、これが白いってことだよ」と見せた。
盲目の少年はアヒルを触って、「あぁ白いって柔らかいんだね」と言い、「違うよ、バカだなぁ、白いってこれだよ」とまた少年にアヒルを渡した。
少年は今度は隅々までアヒルを触り、首のあたりを触って「あぁ白いって曲がっているんだ」と答えた。
このように理解する能力がないと、「曲がった理解」となってしまうのだ。

3.経験
もっとも大切なのがこの経験である。自分の経験から感じたことが真実である。
体験無き知識も理解だけではダメだ。自分の経験から得た知恵こそが役に立つのだ。
ヴィパッサナー瞑想の体験から真実を掴め。
自らの経験から知恵を得るのだ。


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