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ヴィパッサナー瞑想体験記Day6 ~瞑想の質が大きな変貌を遂げる!~

悶絶した5日目。「強い決意の瞑想」が新たにはじまったことでより逃げ場のない激痛の瞑想が続いた。半分にきて崖っぷちに追い込まれた感じ。

半分過ぎて6日目に突入。とりあえず昨夜の講義であった
・自分の感覚を「私の!」にせず、客観的に観察せよ(医者が診るように)
・生まれては消える、ずっと続く感覚などないのだ。それに気づけば平静さを維持できる(反応してはならない)

を意識してみたい。もはや藁にもすがる思い。。。

瞑想のアナウンスが変わっていく

全員で瞑想ホールに集まり瞑想する時間は、最初にゴエンカ氏からこういう風に瞑想しなさい、とアナウンスが流れて瞑想に入ります。
初日からも少しの違いがありましたが、6日目からアナウンスの内容がより具体的に、何を大切に瞑想に向き合うかが語られるように。

アニッチャ(生まれては消える、変化の事実の連続である、無常である)を自分の感覚から感じ取り、そして「感覚」から「私」を切り離し客観的に観察しなさい。
快の感覚も、不快の感覚も、生まれては消える、生まれては消えると、経験から知恵を得なさい。そして平静さを保ちなさい。
アニッチャ、アニッチャ、アニッチャ

「感覚」と「私」を切り離す。
このときから、まるで自分が医者となって、自分の感覚を患者だとして、医者が診断しカルテを書くように(他人から事実を観察するように)、瞑想を行うことにしました。

「痛い!⇒「どうしよう!!我慢できるかな」ではなく、「痛い、という感覚が体のどの部分でどのようにでている、カルテに書き書き」といった感じ。
「どんどん痛くなる!一体後何分残っているんだ!?」ではなく、「痛みは引き続き生じている。どんな感覚も生まれては消えるものだ」という感じに。

この生まれては消えるは、頭でそう思おうとするのではなく、本当にそうなんだよねと体から納得することが重要で、痛み以外の部分の体の感覚から、様々な感覚が瞬間瞬間生まれ、そして消え去る。ぱっと現われ消えるものもあれば、数秒いたり、数十秒・数分残っていたり。ただその感覚も漂っていたり、脈動していたり、大きくなったり小さくなったり。
「体の感覚は変化し続ける事象の連続である」というのを瞑想を通じて実感していったのがこの6日目でした。

そうすると、すごく平静さを維持出来るようになり、瞑想の質感が一気に変わりました!
先日までは、痛いともぞもぞ動いたり、手もポジショニングを変えたり、呼吸も時には深呼吸したりで調整・対応していました。
ただ、客観的に感覚を見る(私の感覚にしない)、生まれては消えるものだから渇望も嫌悪もしない、この2点を意識することで、60分間指一本すら全く動かさず、呼吸も常に静かな状態で瞑想をやり続けることができました。
それは私一人だけではなく、全体にそうした変化が生まれ、瞑想ホールから音が消え去りました。(皆、不動で瞑想できるように)
ただ、残り15分の拷問のような痛みがなくなるわけでもなく、残り10分あたりからかさかさしはじめることもありますが。(苦笑)

「感覚」と「私」の結びつきが起こす現実

午前中の瞑想で、昨日とはうってかわって平静な気持ち、平静な姿勢で瞑想ができるようになり始めた変化を感じ、昼休みに日常の自分が引き起こしている現実について考えていました。

このヴィパッサナー瞑想は毎回「痛み」が必ず登場してくるのですが、その「痛み」というのを「私は痛い」と反応するとどんなことが起きるか?

「私は痛い思いをしている!」
「誰だ!?私に痛い思いをさせているのは?」
「お前か!えいっ!!」(罵る、やり返す、無視する、距離を置く)

という風にやっていることはたくさんあるなぁと。。。
もしくは

「私痛い思いしているよ、、、分かってよ、この痛い思いしているのを!」
「私もう頑張っているよ、やっているよ、あぁ私ってなんて大変、健気。私ばかりがこんな思いをしている」

と悲劇の主人公モードに入り込んだり。。。
こうして自分の感覚に執着が生まれることによって、その影響は自分の中だけでなく周りに対して、反応ボールを投げつけてしまっている自分。

ヴィパッサナー瞑想では、鋭利な刃物のように微細な感覚を捉える鋭い心の意識をもって、全身の感覚をあますところなく観察していくと、脚だけでなく背中や様々なところにも「痛い」という感覚は生まれてきます。

ですが、その「痛い」という感覚は、数十秒で消えるものもあったりする。
そう思うと、道で歩いていて、肩がバン!って当たった時に生じる痛みなんてせいぜい数秒か10秒くらいで消えてしまう程度の感覚にすぎない。
その数秒、数十秒の感覚に執着して、「誰だ!あいつか!!」と攻撃してしまう。

例えば、子供が走り回っていて親の足を思いっきり踏んづけてしまったとする。そして謝ることなく遊びに夢中で走り去ろうとすると、「こら!!私は痛い思いをしたぞ!!」と、「私の痛み」を知らしめるように説教が始まる。
子供からしたら、「お前は嫌な思いをさせる存在なのだ」「はしゃぐのはいけないことだ」というのを植え付けてしまうかもしれない。

足を踏んづけられたところで、はたしてその痛みの感覚は一体いつまで続くでしょう?1時間?半日?数日間?
確かに数日間も続くような痛みだとしたら、厳しく叱責することもありでしょう。でも実際に痛みに意識を向けてみれば「痛い」という感覚は数十秒で落ち着いたりするもの。なのに「私は痛い思いをした!!!」と心の反応のガソリンをたっぷり自分の激情という火元にぶっかけて、子供に強い反応で叱責してしまうわけです。(私の不快な感覚を知らしめてやるー!!って)

そんな数秒、数十秒で消える感覚に反応して何になる?というのが、この瞑想を通じて知恵として得ているような気がします。(口で言うのは簡単だが体現は難しい、だからこそ瞑想で感覚は生まれて消えるものなのだということを何度も何度も体で実感していく)

瞑想で体感と言いながらも、瞑想で激痛が生じるのは変わらない。。。
で、この激痛、客観的に捉えると言っても「痛い」という感覚があるのも現実。
そこに関しては講義では、「現実は苦しみが多いのが事実。受け入れなさい。そしてそれは永遠ではない、生まれては消えるものとして平静を保ちなさい」って言うけど、激痛は激痛。
もうここは、それに耐えうる人間としての器を鍛えるのみだなぁと、ここは根性論で瞑想の激痛に耐えていました。(苦笑)

繋がりと孤独

孤独も同じで、生まれるときも死ぬときも一人。孤独でないことも、また孤独も無常である。どんな繋がりも死ぬときには全て失われる。
だからこそ、「繋がりとはいつか消え去るもの。そしてまた生まれるもの」と繋がりに執着せず、今繋がっているこの瞬間の奇跡に感謝することが大切だなぁと。
川で水をすくったとき、その水とはもう二度と巡りあえないなかで今触れているその奇跡を。


Daysの好きな話し


繋がりを継続するという前提ではなく、この瞬間瞬間の変化の事実の連続に過ぎないんだよなぁと、休憩時間中に思いふけってました。

自分のあり方に向き合うということ

DoingとBeing、やり方とあり方、自己変容、、、などなど、自分自身のあり方に向き合う手段や講座は数多あると思います。
私自身、コーチングや組織開発コンサルティングはじめ、人や組織に向き合うことを生業としているため、この数年間は心理学や各理論をはじめとした人への理解を深めるだけでなく、自らのあり方そのものにも向き合う機会に多く参加してきました。(数年で1,000万円以上学びに投資)

そして、その中で本当にこれは受けてよかった、人生に大きなきっかけをつくってくれた、自分があれをきっかけに変わっていったと思える場には一つの共通点があることに気づきました。

こうしたあり方に向き合うこと、自己変容していくことに本当に寄与している場・機会では、そのときの自分の限界にぶつかって行き詰まり、そこを乗り越えたときに自己変容に繋がっていました。
限界にぶつかるためには、今ある全力を出し尽くし、それでも足らずもっともっと絞り出して、それでもなおどうにもできない状況に絶望を感じ、どうしていいか分からない宙をさまよう中でもがき続けて、ようやく限界を実感するようなことが多かったです。

その限界を実感してからがやっと準備運動が終わったところに過ぎず、すこからがやっとスタートで、自己変容の次元の異なる旅が始まるわけですが。。。

今回のヴィパッサナー瞑想もそれと同じ体験が起きていました。
もし瞑想を余力を残して、1日10時間もしていく訳なので、1回1回をペース配分したりしたら、ずっと「今の自分」のなかでしているだけに過ぎないので、限界にぶつかることすらできません。
10日間も日常から離れておいて、その間家族や仕事をある意味犠牲にしてまで、「今の自分」のペースがただ維持されるだけに過ぎなくなるわけです。

一切身動きがとれない「強い決意の瞑想」は「今の自分」の限界にぶちあたります。6日目で客観的に観察することができるようになっても、平静さを乱すような激痛がやってきます。
1時間までならなんとか平静さを維持できる、でも1時間半だと平静さが乱れるとなると、「閾値(しきいち)」が存在することになる。それは結局のところ、パラダイムが変わってないことなんだよなぁと。
「反応しない」「反応する必要がない」ではなく、「〇時間までなら平静さを維持出来る」というのは、反応するのをただ我慢しているだけに過ぎない。

でも、現実を考えるとVUCA時代と言われる今の時代は、こちらの耐えられる容量なんて、簡単に越えてくるような苦しみがやってくる。「1時間なら耐えられる」ではなく、そのこと自体を現実としてあるがまま受け入れ、「反応」そのもののメカニズムから脱却する必要があるわけで。

でも「言うは易く行うは難し」だから、瞑想で徹底的に「苦痛」という現実にも向き合い、頭ではなく、心と体で知恵とする必要があるということなんですよね。。。
それは、自転車に乗れるようになった瞬間に、もう自転車に乗れない感覚に戻ることが困難なように。

パラダイムを変えていくには、ひたすら今のパラダイムを全力で出し尽くして、限界にぶつかるしかない。
「強い決意の瞑想を10時間ずっとやるか!うんそれがいい!」
と思ったものの、「いや・・・それはちょっと・・・」とひよっている自分。この揺れ動きも自分の心の癖そのものだ・・・と悶々。あり方に向き合うって大変。。。
ヴィパッサナー瞑想、スパルタだなぁ。「考えるんじゃなくて、体と感覚でたたき込めーー!!」という声がどこかから聞こえてくる。。。

6日目講義(一部)

初日の講義で、「2日目と6日目が山場になる」というのを伝えた。
6日目は、逃げ出そうとする人が多くなる。それは5日目の夜の講義で、「人生は、病、老い、死といった苦しみの連続である。」と伝えたことで、
「なんて悲観主義なんだ!ここにいてはいけない。逃げよう!」と思う人がでてくる。
とんでもない。「苦悩の人生」から「安らぎ・調和の人生」になることができると言っているのだから、楽観主義である。

子供に「ツボ一杯分の油を買ってきておくれ」とおつかいを頼んだとする。しかり帰りに子供は転んでしまい、ツボを落として油が半分こぼれてしまった。
一人目の子は、泣きながら帰って、「ツボを落としてしまった。。。油も半分もこぼしてしまった」と親に報告した。
二人目の子は、笑いながら帰って、「聞いて!転んでツボを落としてしまったんだけど、ツボは割れなかったし油も半分も残ったんだよ!すごいでしょ!」と親に報告した。
三人目の子は、ヴィパッサナー瞑想をしているヴィパッサナー子。
この子は、ツボを落としても笑っていて、現実を直視し、「半分は残っている!でも半分は無くなってしまった。よし夕方まで頑張って働いてお金を稼ぎ、ツボ一杯にして帰るぞ!」と行動した。
ヴィパッサナーは、「楽観主義」+「働き主義」なのである。現実を直視し、そして一生懸命に働くのである。

ヴィパッサナーの実践とは、瞑想中におきる様々な感覚に対して、新たな反応を生み出さないことである。反応してしまうと執着を生み出してしまう。
執着はその対象が失われた時に人はみじめになり、苦悩に満ちた人生となる。
瞑想中には様々な感覚が引き起こされる。それはしびれであったり、痛みであったり、熱さであったり。
何がそうした感覚を引き起こすかというと、心の汚れ・汚濁である。ヴィパッサナー瞑想を実践することによって、反応をやめて、新たな渇望や嫌悪といった心の汚濁、反応を生み出すことを無くす。
そうすると今度は、過去に生まれて無意識のなかにヘドロのように溜まっている過去の心の汚濁が感覚を引き起こして反応させようとする。
瞑想中にどんな感覚が生じようとも、それが快の感覚であっても、不快な感覚であっても、ただただその感覚を客観的に観察し続けると、その感覚は消えていくことが分かる。(生まれては消えるのが真実)
そうして感覚に反応しなくなっていくことにより、心の汚濁は一つずつ浄化される。心の汚濁が全て浄化されたとき、人は解放された人になり、苦悩の人生から、安らぎ・調和の人生になっていく。

心の汚濁は、影響力を発揮したいので瞑想を邪魔してくる。
そして瞑想をさせなくするために、5つの敵となって現われる。

1.渇望
-あぁ、エネルギーを感じた!もっと感じたい!
-次回の瞑想もきっといい体験になるはず!
-早く1時間の瞑想終わってくれー!
-痛さとか起きなければいいな

2.嫌悪
-うわー、痛い!やだ!
-微細なエネルギーを感じない。自分の瞑想はダメなんだ。。。
-もうやめたい!

3.眠気
-あぁ、眠たい
-もう1時間も瞑想したんだから休んでもいいだろう

4.苛立ち
-こんな呼吸だけで意味があるのか!

5.疑い
-もっと動きとかイメージ入れた方がいいのでは?
-もっとうまいやり方があるはず
-指導者っていうけど、あの指導者テープ回しているだけでいる意味あるのか?

ここまで濃厚な6日間。瞑想疲れで体も心もくたくた。
まだ明日からも4日間ある。先はながい。。。


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