星間暗黒

星間暗黒
著:増長 晃

 伝承によれば、それは忘却遺跡と呼ばれている。
 学者たちが幾度も調査するが、その調査結果を読み解ける者はいない。それを書いた学者本人でさえ、忘却するのだ。遺跡の情報は報告書の文字として残った瞬間から、誰にも覚えられない情報となる。何度読み直しても、カメラで撮った画像さえも頭から消え失せ、記憶に残らないのだ。遺跡の位置も、構造も、年代も、名前も、誰も知らない。ゆえに忘却遺跡という呼称は現地の地域民が付けた仮名だ。その仮名以外、誰にも知られることが無いのだ。
ただ一人、アクロスという名の少年を除いては。
 月の暗い夜、アクロスは遺跡を訪れた。遺跡で最も大きい石造りの建物に入り、大きな穴の開いた天井を見上げた。三階の丸い天井の中央が崩れ、銀砂を撒いたような星空がそこに広がっている。月の暗さが星を輝かせる。
 アクロスの知識ではこの遺跡の時代や文化圏の推定などできない。ましてや天井の穴が最も謎だ。瓦礫は真下の床に崩れて散らばっているが、残った天井には刃物で切られたような跡が残っている。そして青紫の謎の結晶の欠片が、風化して砂に交じった瓦礫とともに混じって床を埋め尽くしている。この建物には書籍が大量に残されてあり、金属製の器具が長い机に遺されている。目盛りが刻まれて球の形を成すそれは、天体観測の器具にも見える。
 誰の記憶にも残らないこの場所を唯一覚えることができるアクロスは、ここは古い世界の天文観測所であると結論付けた。
 そこまで記し、アクロスはノートを閉じた。このノートを大人たちに見せても、誰も理解せぬだろう。誰の頭にも残らぬそれは、アクロスだけの知識だ。この世界に確かに存在しているにも関わらず、誰もそれを認識できない。そんなものが、この世界に存在していると言えるのだろうか。
 アクロスは石の柱に背を預けて床に座り、一息ついた。ノートは半分以上使った。遺った本のページを開いても、見たことのない言語が羅列してあるばかりだ。青紫の結晶も正体が分からない。何より不思議なものがある。崩れた天井の真下に、一人の少女が横たわっている。アクロスより少し年上だろうか。黒く長い髪で、青い布で目を隠している。たしかニホンとかいう国の女性の伝統衣装を着ているようだ。その国の古い刀を両手で胸に抱き、死んだように動かない。まるで棺に入っているような姿勢だ。
 初めてこの遺跡に入った時から彼女はいた。近づくと、いつの間にか離れている。再び近寄ると、気付けばまた離れた位置に立っている。おそらく彼女の周囲には薄い幕のようなものがあり、その幕の内側に立つと、そこでの記憶を失うのだ。アクロスでさえ、この遺跡の忘却の罠にかかってしまうのだ。
 近寄れないなら、これならどうだ。
「ねえ、貴女は誰?」
 何を思ったか、アクロスは死んだように横たわる少女に話しかけた。
「マユ」
 少女が答え、アクロスは思わず飛び跳ねた。
「君は?」
 マユと名乗る少女が問い返した。
「アクロス。この遺跡を調べている」
 アクロスは現地語で話したが、彼女の言葉は明らかに違う言語—おそらくニホン語—だ。お互い違う言語で会話しているが、意が通じている。言語ではなく意で話している。
「どうしてこの遺跡を調べているの?」
「僕以外の誰もこの遺跡を記憶できないから、つまり僕しか知ることができない。それなら、僕がたくさん調べた方がいい」
「調べたところで、君以外の誰もそれを知ることはできない。それなら、無意味じゃないのかしら?」
 その通りだ。だが、何故かそれを辞められない。気付けばここに足を運んでいる。
「そういう君はどうしてそこに寝そべっているの?」
 アクロスは問い返した。
「私はここから動けない。私は砕けているから、自分で動けないの」
 少女は訳の分からないことを言い出した。自分が砕けているとは、どういう事だろう?だが不思議な心地だ。言葉は通じなくても、心で通っていると確かに思えるのだ。
「ねえ君。砕けた私はこの世界に要らないのかな。だから誰にも覚えられないのかな」
「どういうこと?」
「この遺跡には調査員みたいな人が何度も訪れては私を発見する。何人もの調査員が、何度も初発見するの。私はその人たちをみんな覚えているのに、他の人は誰も私を覚えていないの。君も含めてね」
 アクロスも含めて、その言葉に思わず生唾を飲むと、少女は言った。
「私は存在していないの?あるいは、それが許されていないの?」
 その声色に少女の切実さが籠っていた。少年アクロスに、それに答えられるだけの言葉を持っていなかった。誰の記憶にも残らず、つまり誰の心にも残らない。誰も彼女を想わないのなら、少女は生きていると言えるのだろうか。
 アクロスは家族がいる。友がいる。その全ての思い出があり、明日を想いながら生きている。だが少女には、明日も無ければ昨日もない。ずっと一人ぼっちで、この世界に存在していても、していなくても変わらないのだ。死者でさえ誰かの記憶に残る。しかしこの少女は誰の記憶にも残らない。つまりそれは、死者よりも不確定な生命と言える。
 だが果たしてそうだろうか?記憶に残らない。すぐに忘れるのだから目に見えないのと同じ。もはや死者よりも死者に近い。そんな人間を救う言葉をアクロスは知らない。だから少年は、思ったままを口にした。
「僕は星の本を読んだことがある。図書館で見つけた、とびっきり分厚い本」
 アクロスが語り、少女は黙って傾聴する。
「多分、百万文字以上あったと思う。図説も百個以上あった。でもその全てを僕は覚えていない。忘れちゃったんだよ。貸し出し履歴もある。確実に読んだ覚えがある。でもその膨大な文字の羅列を一切覚えていない。でもね、星に関する知識はちゃんと身に付いているんだ」
 アクロスは星空を見上げて語る。
「僕は今まで食べたものを一つ一つ、正確に思い出すことはできない。ほとんど忘れている。でも今まで口にしたすべての食べ物が僕を確かに形成している。僕が今まで話した言葉をすべて思い出すことはできない。でも僕が使った言葉は確かに僕の精神を形成している」
「何が言いたいの?」
「見えなくても、忘れられても、すべてはあらゆる形で存在しているんだよ。僕たちが星を数え、星と星を線で引いて記録できるのは、星の間に暗闇があるからだ。でも星の間の暗闇を記録できる人はいない。誰にも見えず記録にも残らない暗闇は、それでも確かにそこにあることを誰も疑わない。闇は星や月の光を際立たせて、逆に闇自身を強調しているんだ」
 布で覆われた少女の目に、微かな熱が宿ったように感じた。
「じゃあ星の光があれば、それが私を証明してくれる?私はここにいるよって、誰かに伝わるようになる?」
「やってみないと分からない。でも、きっとできる」
 できるに決まっている。アクロスは強く確信した。その意を汲んだのだろうか。少女は手に小瓶を持ち、アクロスに渡すように掲げた。少女の小さな掌に収まるほど小さく、中には水晶のように透明な欠片が入っている。
「砕けた私を探して。そして、私に世界を見せて」
 アクロスは小瓶を受け取った。すると、気付けば自室にいた。
 夜九時、最後に残った夏休みの宿題を提出するため、机に向かっていた。進路希望調査、いわゆる将来の夢を書いて提出するのだ。第一希望の「考古学者」を何故か消したところで手が止まっている。どうしてそれを消したのかは覚えていないが、代わりに書くべきことは別にある。アクロスはそれを書いた。
—記録者—。
どこにも根を置かず、世界を満たす空白を探す。そんな旅をしたい。忘れた思い出は他の誰かにとっての宝物だ。それを無意味にしないために、世界の隙間を探しに行く。
 名も無き小瓶を握りしめた。これが手元にある経緯は不明だが、この気持ちは、おそらくこれを大事にしている誰かから受け継いだものだ。ならばそれ以上に大事にしよう。大切なものほど、失いやすいのだから。

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