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雑感96:〈悪の凡庸さ〉を問い直す

アイヒマンを形容した〈悪の凡庸さ〉。アーレント自身は歯車のように命令に従っただけという理解を否定していたにもかかわらず、多くの人が誤解し続けている。この概念の妥当性や意義をめぐり、アーレント研究者とドイツ史研究者が真摯に論じ合う。

amazonより

ハンナ・アーレントの著書『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』の中で本編で一度、追記も入れると二度だけ登場した<悪の凡庸さ>という言葉。

この言葉、というか概念の意味合いや解釈、意義について、歴史学者、思想家、哲学者の方々の意見が述べられ、交わされている本です。

この本に出会うまで

私はというと、まず最初に『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』を読もうと思って買ったのだが、頭が悪くて全然頭に入らない。苦痛で仕方なかったので、最後の方にあるエピローグ、追記、解説を中心に読んだ。

しかしこれだけ読んでもよく分からず、インターネットで色々調べてみた。
読んで印象的だった記事は、以前このnoteで『武器になる哲学』を紹介した山口周さんの東洋経済の記事↓

と、とある会社員の方のnoteの記事↓

で、二つとも大変勉強になったのですが、これらを読ませていただいても何となくしっくりこなかった。何にしっくりこなかったかというと、結局アーレントは何が言いたかったのかがよく分からなかった。(エピローグ、追記、解説しか読んでいないのだから当然ではある。)

なんというか、歴史に名を残す哲学者の真意が「ヒエラルキーに無批判になってはだめだよ」みたいな人生のTipsみたいなものであるはずがあろうか?といった具合の違和感。

ということで次に観たのが本ではなく、映画。アマプラで『ハンナ・アーレント』を↓

この映画も映画で非常に面白く、あっという間の2時間だったし、本やインターネットで読んだ断片的なアーレント像を直線にしてくれた感じがして非常にすっきりした。

以下の大学の先生の書評も大変勉強になりました。

余談ですが、末尾の「4.大筋とは関係ないが心に残った場面」のチョイスの渋さが好きです。

そして最後に読んだのがタイトルの『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』という訳です。昨年出版されたばかりの、俗っぽく言えば最新の解説本・考察本という訳ですが、まさにこんな本を読みたかった。そんな今年のゴールデンウイーク+αでした。

雑感

アイヒマンという人

まずアイヒマンという人間は、反ユダヤ主義の思想は薄く、上司の言うことを無批判に受け入れる組織の歯車というように表現されることが多いようだが、最新の研究ではそのようなことはないらしい。
具体的には、『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』で色々示されているようだが、無批判に受け入れるというよりかは、上司にものを申すこともあるし、自己顕示欲が強く、独善的な人間であったらしい。

もっとも、人の人格は一言で言えるようなものではなく、非常に多面的だと思うので、このようなまとめ方で良いのか不明だが・・・。

また、ナチの体制というのは、単純な上意下達ではなく、上への忖度の(こういうことをすれば喜ばれ、昇進できるだろという)メカニズムがあり、その上で、(日本の特攻の経緯と比較してよいのか分からないが、)戦時中に万策が尽きて、どうにもこうにもならなくなった時に出た苦肉の策が、この機構により膨張・暴走させていったことも背景にあるように思った。もちろん責任の所在を棚上げする意図はない。

何れにしても、この本『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』に辿り着くまで、アイヒマンという人物を私は少し誤解していた。

アイヒマンの罪

この<悪の凡庸さ>は、忖度のメカニズムなり近代の官僚制と照らしながら、時に歴史修正主義的な、すなわちアイヒマンを非人格的な歯車とすることで彼を免罪しかねないような文脈で用いられることもあるようだが、この点については『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』のエピローグでアーレントがアイヒマンを厳しく批判している。

議論を進めるために、君が大量虐殺組織の従順な道具となったのは、ひとえに君の不運のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それゆえ積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治とは子どもの遊び場ではないからだ。政治においては服従と指示は同じものなのだ。

エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告 エピローグ

本人の「主体性」と組織の意思決定の「構造」の問題が複雑に絡み合っていて、もっというとその時代にある「イデオロギー」も絡むと思うが、この点については難しすぎて私はこれ以上は何も話せないので、終わり。

主体と客体、個人と組織、そしてイデオロギー、そんな論点でしょうか。

<悪の凡庸さ>とは

一歩引いて考えずとも、アーレントは哲学者なので、一義的には彼女が『エルサレムのアイヒマン』で記述した<悪の凡庸さは>というキラーワードは哲学的な文脈で読み手も解釈するべきなのだろうと思うが、哲学書ではなく『ザ・ニューヨーカー』でお披露目してしまったことが、以降に様々な議論を呼び起こした一つの原因かもしれない。

本人が十分に解説せず、界隈で十分に議論もされずに世に出てしまった。結果としていいことも悪いこともあったのだろうけれど。

例えば「無知の知」だって「知らないことを知っている」とか「無知であることを私は自覚している」程度の意味にいわばデチューンされて世の中で消費されている。
<悪の陳腐さ>という言葉がある意味で二次創作的に、上司を無批判に受け入れることへの批判や啓発に用いられ、結果として社会の役に立つなら、それはそれで素晴らしいことだと思う。

一方で、アーレントの言おうとした<凡庸さ>や<思考欠如>が、世の中一般の人が想起する<ありふれているもの>や<無批判>ではなく、哲学的、歴史的な意味合いでどのような意義を持っているかを考え、敷衍していくことは非常に大切ですね。ありがたや。
このようないわば『エルサレムのアイヒマン』の解説本的な本に出会えるこの時代に生まれたことに感謝して、この雑感を終わります。

『エルサレムのアイヒマン』は一旦本棚に眠らせて、またいつか挑戦してみたいと思います。

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