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雑感95:はじめてのスピノザ 自由へのエチカ

私たちはまだ、「自由」を知らない――。
覆される常識の先に、ありえたかもしれないもうひとつの世界が浮かび上がる。
気鋭の哲学者による、心揺さぶる倫理学(エチカ)入門。

amazonより

この雑感でも紹介させていただいた『暇と退屈の倫理学』の國分 功一郎先生のスピノザ本。

スピノザの代表作である『エチカ』を阿呆にも分かるように平易に解説してくださっている本です。

なんというか、脳の底の沈殿物(固定観念?)を洗濯して、洗濯ロープで干されたような気分です。よく分かんない喩えですみません。目から鱗に近いです。

さて、まず善悪とは組み合わせであると。
「音楽」を例にとっても、時と場合によってその人の気持ちをよくする時と不快にする時がある。そもそも耳の聞こえない人には「音楽」は良いも悪いもない。

昨年映画館で観た『怪物』をちょっと思い出しました。同じ事柄であっても角度や状況によって事柄の評価は変わるのではないか。

と同時に完全も不完全もないと。正確に言うと、すべてのものは完全であると。角の折れた牛を不完全と思うのは、角のある牛を完全と決めつけているから。無意識のところでマジョリティ側を「正」とする思考の癖がついていないか??

農耕馬と競走馬は同じ馬であるけれども、この二つの違いは、農耕馬と牛の違いよりも大きい。農耕馬は速さを求める競走馬よりも、ゆっくりと畑を耕す牛に近いのではないか。

「言葉」でこの世界を区切ってしまった人間の一種の弊害のようにも感じます。そういう意味で非常に構造主義的と言っても良い切り口に感じました。

で、「自由」という言葉を聞かされると我々は「制約がない」とか「制限がない」とかそういったイメージを持ちますが、スピノザの自由は違います。

自由は、必然性に従うことであると。魚を使った例が出てきますが、非常に分かりやすかったです。魚は水の中で生きるという一つの必然性の中で生きています。陸にあがって生活することは自由ではありません。陸に上がれば死にます。となると、水の中という必然性の中でうまく生きていくことが魚にとっての自由だと言えると。

ではこの必然性の中で、・・・与えられた条件の中で人間はどう生きていくのか。
自由とは自分が原因になること、受動ではなく能動である時に人は自由だと本書の中で書かれています。

この「能動」も単に外形的な、英語の授業で習うような行動の能動/受動の関係ではなく、その行動に至った理由が何であるか?まで切り込みます。

カツアゲの例が出てきました。AがBにお金を渡す。これだけ見るとAが能動でBが受動になりますが、心理的な背景としてはBに仕向けられてAはBにお金を渡している。スピノザが見ると、Aはこの場合「能動」ではなく「受動」です。

しかし、では「能動」とは何なのかという話になる。すべての判断は過去の経験、外部からの刺激が多かれ少なかれ影響している。そもそも自分が話している言葉も考え方も、すべては過去の外部とのコミュニケーションの中で構築されたものといっていいと思います。それほどに自分の判断の「オリジナリティ」というものは危うい存在に思います。

これは私の勝手な例え話ですが、仮に「この人と結婚したい」という人がいたとする。この「この人と結婚したい」という思いは一見自由意志のように見える。しかしなぜ結婚したいのか?となった時に、「親が喜ぶから」となると、これは自由意志ではないように思います。また「この人が好きだから」という自発的な感情の吐露であっても、その「好き」という価値観は、自分の内面的要素のみで築かれたものではなく、多くの外部の刺激を受けて現在の「好き」という自分自身の価値観がある。

こんな堂々巡り的な話をしていると、自由な人など世の中に存在するのか?と疑心暗鬼になってしまいますが、「自由」という概念自体、人間が勝手に作り出したものですし、自由な人なんていてもいなくてもいいんだと思います。

無責任なことを書いて終わります。

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