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札幌西校「探究の授業」を振り返る①

2021年4月から札幌西高等学校「探究アドバイザー」の委嘱をうけ、教員3人のコアメンバーとタッグを組んで4人で実験を始めました。かれこれ1年半あまりが過ぎ、来年度は3年目の実験に入ります。3年目の計画を練り始めるために、これまでの出来事を振り返ってみることにしました。まず今年度スタート時に「探究に関連して」記述したものを振り返ってみよう。

2022年4月2日記述
カリキュラムマネジメントの相談事

新年度になりました。今年度に切り替わるタイミングの前後で、3つぐらいの北海道内の高校から「探究の授業」の設計相談を受けています。この設計で関わることを複数校同時に見ることができると、共通してぶつかる壁みたいなものに気がつき始めます。

今のところ共通して見えるところは、総合学習から総合探究への違いを認識しないで作られた教材コンテンツ(ある意味残骸)をどの様にリフォームするか、もしくはゼロベースに整えるかといった突貫工事から始まるケースが少なくないのではないか、ということです。ゼロで更地から始められればやりやすいのだけど、余計なものがあったりすると、まずこれをどうしようかといった、向き合い方、乗り越え方、が難しい。前任者が苦労して作ったことや、対外的なステークホルダーの動きが先行されているとなると、今更引くに引けないというケースもありそうで、新たに担った先生は大変だな、というシチュエーションが多いだろうと予測されます。しかもこれを理解してくれる周囲の教員仲間がいればいいのですが、孤立している状況で諦めてしまう可能性もあるでしょうし、教員の働き方改革そのものがこの突貫工事をさせてくれないかもしれない。このリフォームの作業は、残業でやるしかない可能性が高そうなのです。

年度切り替わりで、新たに引き継ぐことになった担当教員がその問題点を感じていればいいのですが(そして誰かに相談する)、総合探究へのシフトへの意味を理解していないとなると、そのまま時代錯誤なコンテンツが生き残りつつゾンビの様に存在感が出てきます。

これを放置すると、時代はどんどん変わってしまい、年々担当者も変わっていくわけですから、だんだんと教員も生徒も意味を感じない幽霊カリキュラムを実行せざるをおえないとなります。これほど不幸なやらされ感満載でアリバイづくり的な探究という名の授業が存在するのは悲惨です。どこかのタイミングで、救世主的な教員がたまたま現れたときに、一気に切り替わるという期待を待ち続けることになるのでしょうか。しかし救世主のような出現の可能性は低く、新しいことをせず、前例主義的な人が多いのだと思います。

外部が関与しないと厳しいな、と思うこの突貫工事の仕事。そんなに簡単ではないためボランティアでやるには重く、CS(コミュニティスクール)のような仕組みで乗り越えられるのかも疑問で、なんらかの別枠で予算を割く様な仕組み作りというのが教育委員会等の仕事になるでしょう。議会でも議員さんが興味持ってくれ、指摘するなど段階にならないと、どうにもならないかもしれません。予算を確保できたとしてもここを担える仕事スキル持っている仕事人は、全国全道の学校の数からいって足りないのも確かです。これからの新しい仕事のカテゴリーなのかと思います。

今年度も試行錯誤は続く。。。

2022年4月16日記述
実践の場として学校は不適切である
『脱学校の社会』イヴァン・イリイチ

新年度に切り替わって今年度の授業もスタート。札幌西高の「探究活動アドバイザー」も就任2年目を迎えて、先日1回目の授業を実施した。札幌西では2年生が探究活動を実施する体制をとっている。最初の冒頭30分程度お願いしますね、と言われたので、さてどうしようかと一週間ぐらい悶々と考えていた。何事も最初が肝心であり、昨年の内容の反省も活かさないといかないし、自己紹介も混ぜなきゃならないし、一方方向で話をし続けるのは面白くないだろう。そもそも自己紹介が厄介でもある。江口さんを紹介したいのですが、どうやって説明したらいいですか?とよく聞かれる。社会のレールからはみ出したキャリアだと仕方がない。就活もやってない、サラリーマン経験もしていない、ニートもフリーターもしていたとなると、説明しにくいのが今の日本社会の特徴だ。

「なぜ、探究なのか?」。一般的によく言われているようなことを言ったところで、あまり響かないだろうな、とは昨年の状況を見ていると感じていたので、何かインパクトが欲しいと思い、いろいろ考えてみたらイリイチに落ち着いた。

オーストリア出身の哲学者イヴァン・イリイチは、50年も昔にこんなことを言っている。
• 教育は必要であり肝要であるが、その実践の場として学校は不適切である。
• 多くの人や社会、学校自体が、日常の生活体験などから学ぶことを軽んじ、学校での学びを重視するようになる。
• 社会の学校化が強まると、学校で学んだ知識こそが学習であり、独学は学習でないという風潮にもなる。

いきなりあらあわれた人が、学校の授業中に「学校は不適切だ」と述べることが衝撃的に映れば、目論見通りとなる。3つ目の風潮になっている様子は、大学生へのアンケート調査からその傾向が証明されている事を紹介。このイリイチの発言に対して教育界はその後様々な議論や動きがあり、その紆余曲折の中で、日本は探究の授業という枠組みを用意してきた、という流れで説明した。かなり強引だけど、まとが外れているわけではない。

小中と高1を学校生活で過ごしてきた子らには、どのように映ったのだろう。そして探究の時間とどう向き合って活用しようと思っただろうか。話が終わった後に、一人の高校生が「探究のテーマ」決めに早速相談にくる。「毎週来てくれるんですよね、なんだかワクワクします。というよりも江口さん攻めてますよね、攻めてるなーって話聞いているときに思いました。」「よく見抜いたね、攻めてるよ(笑)」といった話をしていたら授業時間が終わってしまって、あとで聞くともう一人待っていたらしい。あー、すまんことしたな…。

生徒に対してどう発言するかということ以上にイリイチの言葉を使いたいと思ったのは、学年団が変わって自分の話をはじめて聞く教員が多いだろうから、その側面をかなり意識していた。札幌西は北海道でも屈指の伝統校でありトップレベルの進学校だ。大学受験を重きにおくこれまでの学校文化の象徴的な場所で、探究の授業は中心になりにくい。この変化を成し遂げるための存在でもあるので、生徒から見ると攻めてますね、と映ったようだ。仲間の教員らと終わってからの打ち合わせで、この一年で職員室で探究の文句や反論という風潮はほぼなくなった、という手応えを持っているとのこと。これは比較的うまくいっている方なのかしら?!

さて、今年はどんな子らに会えるのでしょうか?!


「第0回総合芸術祭」2022/4/16 ちえりあホール

2022年4月17日記述
イベントを開くのが手っ取り早くて、学びの質が良い

昨日、ちえりあホール(436席)で札幌西校の生徒の探究活動の一環で行われた「第0回総合芸術祭」。コロナで発表機会を失った、文化系の部活動等に声をかけて、賛同した「軽音部」「演劇部」「ダンス部」が中心となり、他にも「放送部」などが加わって3時間の公演を行った。一般のお客さんには広げず保護者や関係者向けのクローズドにしたり、そのため会場費は関係する生徒で分担したりなど、あの手この手の試行錯誤の上で成り立った。関わった教員もほとんど何もしないで、外からアドバイスと安全管理ぐらいなもので、ほぼ生徒たちが全て担ったという。ついでに教員は出張扱いになっていることを聞いたので、そこは安堵したところ。そういう意味で見えない負担は、ある程度ある(ここは意外と重要)。

かつて北大のクラーク会館を貸し切って映画祭を毎年やってからよくわかるのだけど、本番当日になって、あれがないこれがない、うまくいかない、開演の時間が迫っている、どうしよう、バタバタバタ…。軽音の音調整にてこずり開場が遅くなり、音楽を聴いてみると音調整の時間が足りなくどこかで妥協したのかなと感じたし、ダンス部の踊りも後半になると体力的にキレがなくなってきたりと、高校生らしさが非常に面白かった。これらが良い体験なんだというのは経験的によく理解していて、引率の先生もそのあたりよく分かってみていらした様子。観客が保護者身内だからこそ、クレームがほぼ出てくるわけでもないだろうし、そういった意味ではまずまずの難度のイベントに仕上がったのではないか。

イベントが手っ取り早い理由は、目的がはっきりしやすく、観客などのターゲットが鮮明になりやすく、必要なリソースもわかりやすく、しかも始まりと終わりが設定されている点が挙げられる。そのためでもあるが「プロジェクトマネジメント」のフレームにガッチリハマるため、体系的にわかりやすくすることも可能で解説も後々しやすい。よって体験型の学習はこの手の類に収めると教えやすいし管理もしやすい。大学生が手がける「カタリ場」の授業の企画設計もだいたいそのようなフレームにしている。

昔「キャリア教育コーディネーター養成講座」の公式テキストに、プロジェクトマネジメントの章を最後に据えたのも、そういった理由だった。ちなみにキャリア教育コーディネーターの資格を持ってないけど、最初に作ったテキストの2つの章は自分が担当させて書かせてもらった。今は改訂版が出ていて、どのように中身が変わったのかをみていない。思い出したついでに改訂版購入しておこうか…。

これから大事な要素は、今週の授業中の彼らの振り返りでどうフィードバックして、月末にある探究活動発表会の中身だと思う。ただ単にこんなことしましたという発表じゃ意味が半減する。よく起きる現象としては、本番が頂点になり、ある意味燃え尽き症候群っぽいことが起こり、その後の振り返りが弱まったりやらなかったり、その次のアクションにどう紐付けるか、というところがもったいない。そのあたり見ることできれば、学びがもう一歩広がるか深まるかするのではないか。

2022年4月21日記述
「やりたいことをやっていいよ」と解き放つと、生徒の傾向が見えてくる

毎週木曜日は、札幌西高の探究の授業。先日の総合芸術祭の振り返りが気になるところだったが、2年生の担当をすることになり、3年生には回れず、今日は2年生が行列をなしてきたので、ひたすら2時間ぶっ続けで探究相談会となった。30人以上と話をしただろうか。数をこなすと、だんだんと傾向が掴めてくる。

印象としては「こんなことを考えているのですが、どう思いますか」という自分のテーマ設定に関して周り目を気にするパターンが一番多かったのではないだろうか。「どう思うのというよりも、なんでそれをやりたいと思ったの?」「自分がやりたいことなら、それは僕がどう思うだろうがやったらいい」といったような回答から始まって、少しやりとりをする。

次に多かったのは、「こんなこと考えていますけど、うまくいきますかね?躓かないですかね?」というような見通しが欲しかったり、安全な道を探ろうというケース。「いやそれはやってみないとわからないだろうし、もう少し情報収集などしてうまくいくかどうかの判断材料が欲しくないかな」といったような回答をしながら、少しやりとりをする。

一番印象に残った子は「プレゼンテーションについて探究しようと思ったのですけど…」というテーマ設定について相談が来て、動機を伺ったところ「YouTubeなどで話の上手い人の動画を色々見て、どのようにしたら自分もああやってプレゼンできるようになるのかを知りたいし、なってみたい」という。「でもそれはプレゼンが上手だから、多くの人に見られているということなのかな?見られている理由をいくつか挙げるとしたら、プレゼンがうまいということも入ってくるだろうが、それが決定的なものなのか?」「...違いますね。。。」「プレゼンが本質的なものじゃないよね?!」「...ちょっと考え直してきます」と立ち去っていった。そして授業が終わってから再び現れて、「今まで見かけを気にしてばかりいて...」というような話を少しして帰っていった。

さて、他の高校の生徒の傾向が気になってくる。みなさん似たようなものでしょうか?それとも違ったところがありますでしょうか?全国で探究に関わる先生方には伺ってみたい、と思いました。

いかに子どもたちが、大人や先生に評価されるという環境下にどっぷりつかりすぎているのか。それが問題点として浮かび上がってくる。もっと自由に伸び伸びとした時間をそれなりに確保されてきたら、もっと面白い発想が出てくるだろうに...

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