モロッコ旅行記 3月6日

3月6日

黄漠も鳥が鳴けば閑か

オーベルジュをチェックアウトする前に、宿泊客のスイス人女性と前庭で煙草を吸いながら会話する。モロッコに三週間滞在するらしく、今日はヒッチハイクでワルザザードへ向かうという。たくましい女性。日本にも行ってみたいと言う。
「魚がいつでもどこでも美味しいんでしょう?」
なぜモロッコを選んだのかと問われ、
「マラケシュという響きが格好よくて」
と答えると笑ってくれた。
重い荷を背と腹に抱えてオーベルジュを発つ。
「ここをリコメンドしといてくれよ」
スタッフがそう言った。
黄漠、赤い丘にぐるりを囲まれているが、川が近く、緑もあって、小鳥が絶えずさえずっている。そのために、目をつむれば日本の田舎の静けさと変わらない。野山があって、田園が広くつづく畦道を、のんびりと歩いているよう。そうして目を開ければ土ばかり。けれども先までとは違う印象を受ける。当地の人々にとっては、これを閑かというのだろう。
橋を渡り、土壁に多彩色のローブやスカーフを吊るす土産物屋の前を通って、急階段を上がっていくと、サイードゥがいた。挨拶を交わし、一緒に煙草を吸えば、来てよかったと思う。
テラスへ上ってミントティーをいただく。今日のは甘すぎず、唇に砂糖が残らない。渋みのあるミントティー。
もう一泊したくなる。
サイードゥが陽気な男を連れてきて、彼の携帯に届いたメールを代読してもらっている。江戸の代書や代読もこんな具合にし誰かからの便りに耳を傾けていたのだろう。
話すこと、読むこと、聴くこと、書くこと。わたしができるのは記号を介した読み書きであって、頭でっかちなのだろう。音楽的ではない。
サイードゥが喋り、男がメールを返信する。
わたしには目と手。サイードゥには耳と口。この音楽を、わたしは翻訳しなくてはならないし、出来るのだ。
もう行こうとすると奥さんがやってきた。二人の会話を腕を組んで聞いている。テラスで交わされる会話。なにひとつわからない。
最後に頂上に昇って帰ろう。といって、ワルザザードでなにをしよう。スークの様子をみて、スーパーでビールを買って、ホテルで一泊して、明日ティネリールへ行って、それで二週間。六分の一。詩作に充てる時間がゆっくり持つことができればいい。
最後に番小屋近くで一弦の楽器を弾く爺さんのもとを訪れる。同じメロディが繰りかえされる。儚げにビブラートして風にたやすくちぎれていく。
マラケシュからザゴラ行のバスに乗って途中下車したポイントまで歩いた。約二時間。荒野。石ころばかり。鳥が啼かない。時折り
走行していく車の音ばかり。
一時間以上歩いてようやく遠くに緑が見えて、川のあることが知れる。疲れた身体に力がみなぎる。そうして家畜や糞尿の香りがし
て人里へ辿り着く。オリーブ、ヤシ、紫の小花、人々の営み。キャラバンの何万分の一かは体験できたろうか。荒野にひときわ目立つ、印象的な緑色を見つけた時の安堵。生活の香り。
乗合タクシーに50DHを払って一息にワルザザードへ。途中に多くの竹をみた。日本の青竹ではない。これも枯れたような色、ススキのようだ。一所に集まって、短く伸びる。
ホテルババへチェックイン。一泊100DH。
人や車の行き交うアスファルトの舗道を荷物もなく歩く足取りの軽さ。
ワルザザードに見るべきものはないのかもしれないが、約十キロの荒野を歩いた後では、過ごすのに何と快適そうな街だろうかと心が弾む。
思えば、モロッコに来て初めての都市。建設途中で剥き出しの灰色の建材はコンクリート。ミナレットがあって、午後四時には祈りの放送が流されるけれども、エンジン音や排ガスにまぎれている。
馬車もない。家畜の気配がない。猫も少ない。メインロードにスタイリッシュな街灯が均等に建ち並んでいるだけで、おおと唸ってしまう。
メインロードに面したカフェレストランでタジンケフタとオレンジジュース。オレンジの酸味が沁みる。タジンにはスプーンやフォークがついていなくて、パンですくい、拭って食べすすめるも、使うパンに対して乗っかる具が少なくならざるをえない。これではパン三つは必要そうだ。それで右手で具を直接つかんでパンに乗せる。都会的なテラス席で素手でものを食べている自分を奇妙に思う。
メディナという文化地区でなら何の違和感もないだろうが。
いい時間なのに君がいない。君のこと思えるいい時間。
することがないから酔払ってる現地は七時。
コンクリートのバスターミナルにナトリウムのオレンジライト。
君とドライブして潜りぬけたトンネルの色。
埃っぽくて窓を閉じた小さな車に流した音楽。
地球の反対側じゃないけど懐かしくて踏むステップ。
ぼくの視力の悪い目でも見える星空。
きらきら揺れる酔い星。
夜空にあいたスポンジの穴。
ぼくの愚痴を目いっぱい吸いとってやがて降るような雨。
すぐに乾くからパラソルはいらない。
涙をかくすサングラスが欲しい。
陽気な音楽に際立つ濃い影へ笑ってみせる。
君の笑顔を真似てみる。
満天を繋げて思いだせば流れ星。
燃え尽きないで届いてほしい時差ボケの願い。

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