見出し画像

でき太くん三澤のひとりごと その74

◇ 「わからない!」と素直に言えなくなった子どもたち


私の胸が引き裂かれるほどつらい気持ちになるとき。

それは、心が傷ついた子どもが何とかそれを隠そうと、違う自分を演じざるを得ない姿を見るときです。


実践教室には、様々なお子さんが通われています。

学年でもトップレベルで数学ができる子。

中学数学どころか、小学校算数の計算もままならない子。

小学5年生で指を使わないと「9までの数」の操作ができない子。

小学4年生で5年生の飛び級学習をしている子。


私は実践教室では主に、苦手意識がある子、深い劣等感があるお子さんのサポートをしています。

その中には、まだ10代なのにどこまで深く心が傷ついてしまっているのかと思うほど自己否定している子もいます。

そういうお子さんは、もうこれ以上心が傷つかないようにするために、おそらく無意識に「できる自分」を演出したりします。

これは小学校高学年以上になってくると顕著に出てきます。


たとえば、Aという問題を2度ほどミスしたとします。

すると、「あ、じゃあこういうことかな。うん、だぶんそうだ」

というようなひとりごとを私に聞こえるように言って、解答を消し、再度考えたようなふりをして解答を書き直します。

ですが、その子はその問題がわかっていませんから、ひとりごとを言ったあとも正解できることはありません。

深く心が傷いた子は素直に「わからない」と言えなくなってしまっているのです。


過去に「わからない」といって「なんでこんなこともわからないの」と言われた(叱られた)。

「わからない」といったら、学校で居残りをさせらて「わかった」というまで帰してもらえなかった。

先生に「学習障害」の傾向がありますから、支援級に変えたほうがよいと、親ではなく子ども本人に直接言われた。

というような経験があるために、素直に「わからない」と言えなくなっているのです。


学習は「わからないこと」をわかるようにするために行うものでもありますから、わからないことがあって当然なのに、「わからない」というと自分がダメな子として評価される。

だから「わからない」と言えない。

こんな理不尽なことがあってよいのでしょうか。


私は、「わからないこと」を素直に臆することもなく「わからない、先生!」と言えない、深く傷ついてしまった子が「できる自分」を演じざるを得ない姿を見るたびに、胸が締め付けられるような思いになります。

そういう子が、素直に臆することなく「わからない、先生!」と言えるようになるには、少し時間がかかります。

私が「わからない」ことを責めたり、叱ったり、低く評価したりしない存在であるということを疑いもなく信じてもらえるようになったら、子どもは少しずつ「わからない!わからない!なんでかわからない!」と、無邪気に、素直に言えるようになってきます。


素直に「わからない」を言えるようになってくると、少しずつ子どもは学習ができるようになってきます。

そして、「わからない」と言っても、自分はダメな子だと評価されないかもしれないと思うようになってきます。


実践教室は、ただ教科学習の仕方や、成績をあげるための場所ではなく、不甲斐ない大人たち(自分もそうかもしれません)によって傷ついた子どもたちの再生の場所でもあるように思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?