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文献と考古学の史料からみる斎宮のお話


はじめに

 皆さんは斎宮という言葉や三重県多気郡明和町にある史跡、斎宮跡のことをご存知でしょうか。
 斎宮跡は現在も発掘調査がなされている遺跡で、発掘調査の始まりは、高度経済成長期の最中、ちょうど大阪万博が開催された昭和45年(1970年)からになります。
 現在の斎宮歴史博物館がある場所の南側周辺(古里遺跡)で、民間会社による大型宅地造成計画が持ち上がり、そこで明和町教育委員会が調査主体となって試掘調査を実施したところ、各試掘グリッド(溝)で奈良時代や中世の遺構・遺物が確認されました。そのため、翌年には、三重県教育委員会が調査主体となり、古里遺跡の面的な事前調査が実施されました。その結果、数多くの掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)をはじめ、井戸、土坑、並走する奈良時代と鎌倉時代の大溝のほか、遺物では蹄脚硯(ていきゃくけん)や大型朱彩土馬(おおがたしゅさいどば)などが発見されました。
 大規模な公的機関の可能性を示す蹄脚硯の出土によって、幻の宮とよばれていた斎宮跡の存在が明らかとなっていきます。
 こんな面白い遺跡なのに知らない方が多いように思いますので、今回は斎宮の話をしていきたいと思います。

斎宮に関する用語の説明

 まずは、斎宮のことに関する大まかな用語について説明していきたいと思います。

斎宮(いつきのみや・さいくう)

 斎宮(いつきのみや)は、天照大神の御杖代(みつえしろ)として天皇に代わって神宮に奉斎する ため伊勢に派遣された斎王の宮殿を示します。また、伊勢斎王などとして用いられる斎王を示すこともあり、かつ伊勢在任中設置された臨時の官、つまり令外の官であり、斎宮の庶務一般を取扱う斎宮寮をも包括して用いられます。
 その起源は『日本書紀』崇神天皇6年条にみえる豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)とされますが、制度的に確立するのは7世紀後半の天武朝です。亀山天皇文永9年(1272年)に斎王愷子内親王が退下(たいげ)した後、奨子・懽子・祥子の斎王群行(ぐんこう)は行われず、後醍醐天皇建武元年(1334年)祥子斎内親王が野宮から退下したあとは斎王の卜定(ぼくじょう)も行われなくなり、斎王制度は廃絶してしまいます。この間、9世紀初頭一時中絶してしまいますが、660年にわたって存続したことになります。康永元年(1342年)頃には殿舎は消滅していることを坂十仏の『伊勢太神宮参詣記』は記しています。

斎王(さいおう)

 飛鳥•奈良時代における斎王は、必ずしも天皇の即位毎に派遣されたものでもなく、また設置されない天皇のときもありました。 斎王制度について史料上では『延喜斎宮式』などで確認することができます。斎王は、天皇即位に際し、未婚の内親王若しくは女王の中から卜定され、 宮城内に設けられた初斎院(しょさいいん)で約 1年間、その後宮城外の野宮(ののみや)において潔斎につとめられ、卜定後3年目の月神嘗祭(かんなめさい)に奉斎するため、大極殿での天皇との「発派の議」に臨み、長奉送使以下、数百人を従えて伊勢に赴きました。
 斎宮に入った斎王は以後潔斎の生活を送りながら神宮の6・12月の月次祭(つきなみさい)、9月の神嘗祭に奉仕しました。

群行(ぐんこう)

 斎王の伊勢赴任を群行といいます。群行に先立ち、大祓が行われ、京機内と群行路にあたる諸国での仏教的な行事は 1ヶ月間禁じられました。群行路は、宮都の変遷に伴い変更されています。史実上の最初の斎王とされる天武天皇の大来皇女は、飛鳥の都から、初瀬斎宮(後の野宮)に入り、初瀬から伊賀国の名張、阿保を経て伊勢国との国境にある塩見峠を越え、伊勢国の川口、一志を経て多気の斎宮に入ったとされています。
 奈良時代の群行路は、霊亀元年(715年)に平城京の南から大和高原を越えて名張に至る「大倭国都祁山の道」が開かれ、名張以東の伊勢道を用いました。 都が長岡京を経て平安京に遷都されてからの群行路は、平安時代初期では、近江国の甲賀から柚川沿いの「倉歴(くらふ)の道」が使われ、伊賀の柘植に出て加太峠越えで鈴鹿頓宮(とんぐう)に出ていましたが、仁和 2年(886年)に鈴鹿峠を越える「阿須波道」が開かれると、近江の国府(勢多)、甲賀、垂水(たるみ)、伊勢の鈴鹿、一志の五か所に頓宮を設け、平安宮から 5泊 6日の行程が定まりました。

退下(たいげ)

 斎王は、原則として当代天皇の譲位か崩御により任を解かれまたが、斎王の父母や本人の過失なども徽れとされ、退任せねばなりませんでした。斎王の退下にあたる帰路は、 『延喜斎宮式』の規定や『西宮記』によれば、解任が吉事であれば往路の群行路を用 いて帰京し、凶事であれば一志から川口、伊賀の阿保、大和の都介、山城の相楽を通り、最後に乗船し、難波津で禊を行ったうえで、山城の河陽宮を経て帰京しました。 

斎宮寮(さいくうりょう)

  斎宮寮は、『続日本紀』大宝元年(701年)8月4日条に「斎宮司准寮、属官准長上焉」としてはじめて見え、同上養老 2年(718年)8月13日条に「斎宮寮公文始用印焉」と載せられています。また、同上神亀 4年(727年)8月23日条に「補斎宮寮官人ー百廿一人。」とあり、この頃までに寮に昇格しています。 斎宮寮の職員は、狩野文庫本『類緊三代格』神亀 5年 (728年)7月21日の勅に、頭 (従五位官)の長官、助(正六位官)、大允(正七位官)、少允(従七位官)、大属・ 少属(従八位官)各 1名と使部10人のもとに主神司、舎人司、織部司、膳部司、炊部 司、酒部司、水部司、殿部司、采女司、掃部司、薬部司の11司の官人を加えて107人となります。
 最盛期の平安時代前期には門部司、馬部司を加え、『延喜斎宮式』にみえる 長上官26人、番上官101人の計127人に近い人数となっています。また、同式では、女官(命婦・乳母・女 濡) 43人、宮主(卜部氏)及び仕丁など77人、将従273人と規定されていて、また平安時代中期以降、勅別当や女別当・宣旨・女房などが知られていますが、総数500人を超える大規模な役所となっており、中央官司では天皇の内廷である後宮、皇太子に関する春宮に類似した組織でした。
 その後、斎宮は、天長元年(824年)以降、伊勢神宮から遠く不便であるため、度会離宮であった「離宮院」が「常斎宮」とされましたが、承和 6年(839年)その官舎百余宇を焼失したため、再び多気の宮地に戻り、廃絶まで続きました。
 平安時代後期の成立になる寮は『新任弁官』によれば「内院斎王御之 中院巳上桧皮、寮頭在此 外院萱葺屋五六十宇、屋体如民屋」と三院で構成されていて、斎王の御殿である内院、寮頭がいた中院、一三司など役所があった外院に分かれ、建物は外院だけで5、60棟、全体で100棟以上ありました。内院には斎王殿・神殿、中院には斎宮寮頭の寮庁、外院には主神司と12司らの官舎・寮庫などの建物があったと考えられています。 『延喜式』にも「内院」をはじめ「神殿」 「寝殿」等の施設名が散見できていて、その一部の存在は、史跡東部に広がる方格地割内に推定することが発掘により可能になってきています。一方、飛鳥• 奈良朝における斎宮の実態は、未だ不明な点が多いので、今後の発掘によって解明されていくことが期待されています。
 斎宮寮の造営は、斎王の群行に先立ち造宮使が京から遣わされていて、殿舎の維持管理は 寮官、宮殿の修理は伊勢国司、官舎の修理は大神宮司が各々担当することになっていましたが、平安時代後期以降は、ほとんど大神宮司の成功によっています。

斎宮跡について

 櫛田川の古流である祓川の低位段丘上(10~14メートル)に斎宮跡はあり、川はその名の通り斎王が禊を行った川です。周囲には関連を思わせる宮ノ前(みやのまえ)・御館(みたち)・楽殿(がくでん)・下園(しもぞの)・上園(かみぞの)・祓戸(はらいど)・花園(はなぞの)などの地名が残っています。
  斎宮跡は昭和54年(1979年)3月27日に現在東西2キロメートル、南北約700メートル、面積約140ヘクタールが国の史跡に指定されています。『延喜式』『新任弁官抄』によれば斎宮寮の周囲には大垣と湟がめぐらされ松や柳の並木の道がありました。全体的には西部に奈良時代の遺構と遺物が中央部から東部にかけて平安時代のものが多く検出し、出土していて、斎宮が西から東に発展していったものと考えられています。とくに東部では溝(巾2メートル、深さ1メートル前後)及び道路によって区切られた一辺120メートルほどの方格状の区画が明らかとなってきました。また、建物の方向は区画の軸線に一致していて、各官衛が計画的に配置されたものと思料されます。溝に沿って柵列や築地塀・大型掘立柱・四脚門・土器溜めなどが確認されています。なお、西部の堀立柱建物は東部のそれの原氏通りと異なっているため両地区では別々の地割が想定されます。西北部の古里地区では巾2メートルの大溝のほか掘立柱建物や大杉井戸が検出されています。建物は瓦葺ではなく、桧皮葺や板葺で「如民屋」とあるように格別立派なものではなかったと推測されています。
 出土遺物には奈良・平安時代の土師器が圧倒的に多く、種類は多様で三彩陶器・緑釉陶器のほか土馬、なかには40センチの朱彩の大型飾土馬も含まれ、蹄脚硯・円面硯・風字硯などの陶硯類、寮・駅・大萬・萬・仁・氏子・四条などの文字が書かれた墨書土器、帯金具などの遺物が多量に出土しています。

『斎宮跡発掘資料選』(平成元年10月18日 編集発行 斎宮歴史博物館)の図版から引用。
『斎宮跡発掘資料選』(平成元年10月18日 編集発行 斎宮歴史博物館)の図版から引用。
『斎宮跡発掘資料選』(平成元年10月18日 編集発行 斎宮歴史博物館)の図版から引用。

  このほか「水司鴨口」とヘラ描きされた土師器、「美濃」の施印の須恵器が発掘されています。「美濃」は斎宮で使用される陶器が同国から納められることになっていた『延喜式』の記事と一致します。また、斎宮で祭祀や儀式のために消費される土師器は莫大なもので、斎宮周辺の水池遺跡・発(おこ)シ遺跡・堀田遺跡・粟垣内遺跡及び斎宮内などから50基以上土師器焼成壙が確認されています。

『斎宮跡発掘資料選』(平成元年10月18日 編集発行 斎宮歴史博物館)の図版から引用。

 遺跡は昭和49年(1974年)以降毎年1500平方メートル程度発掘調査され、昭和57年(1982年)3月には史跡公園斎宮跡として開園されています。

『斎宮跡発掘調査報告Ⅴ 飛鳥時代の斎宮中枢域の調査』 (2023年3 月30 日 編集・発行 斎宮歴史博物館)から第3図を引用。

近年の発掘の成果と歴史的考察

 近年の発掘により、飛鳥・奈良時代の斎宮の様子が少しずつ分かってくるようになりました。
 発掘調査から7世紀後半から8世紀初頭の掘立柱塀で構成される方形区画を確認し、約 33°東偏する「斜方位区画」の特徴が明確になりました。そして、掘立柱塀で遮蔽された内部空間には、中心建物(正殿)と外周建物(東西各3棟)がロ字型の建物配置をとり、区画西隣には複数の倉庫が配列する「倉院」の存在が明らかとなりました。
 さらには掘立柱塀による囲繞を企図して、内部空間の拡張と正殿・東第一堂以外の建替えを伴う2段階の遺構の変遷が認められました。
 これらを飛鳥斎宮 Ⅰ期・Ⅱ期と呼称し、Ⅰ期は7世紀後半、Ⅱ期は7世紀末~8世紀初頭に比定しています。このような重要施設を「飛鳥時代の斎宮中枢域」と呼び、斎王宮殿域(斎王の居所および執務・儀礼空間)の可能性を想定するようになりました。
 飛鳥斎宮Ⅰ期は東西長約 38.2 m、Ⅱ期は約 40.8 m、南北長はⅠ・Ⅱ期ともに方形区画の西辺で約 57.8 m、東辺 で約 59.0 m、正殿の中軸線で約 58.4 mを計測しています。方形区画の平面形は北東角がやや突出してわずかに歪んでいる特徴があります。造営尺を唐尺で換算すると、Ⅰ期は東西130 尺、Ⅱ期は東西140 尺、南北西辺198尺、南北東辺 202 尺、正殿の中軸線で200 尺と措定されています。

『斎宮跡発掘調査報告Ⅴ 飛鳥時代の斎宮中枢域の調査』 (2023年3 月30 日 編集・発行 斎宮歴史博物館)から第14図を引用。
『斎宮跡発掘調査報告Ⅴ 飛鳥時代の斎宮中枢域の調査』 (2023年3 月30 日 編集・発行 斎宮歴史博物館)から写真図版1を引用

 飛鳥時代の斎宮中枢域で確認された建物配置や規模は、発掘されている地方官衙遺跡で類似するものが見当たりません。その類似性については前期難波宮(難波長柄豊碕宮)や藤原宮の内裏の構成に親縁性が想定されていて、造営の基準尺の親和性が確認されています。
 また、皇大神宮の二の玉垣と飛鳥斎宮Ⅰ期遺構は同等規模となる特徴があり、皇大神宮と不可分な関係にあることが指摘されています。さらには、前期難波宮の内裏+朝堂院と倉をモデルとした皇大神宮(内宮)、初期の内裏をモデルとした斎宮中枢域という共通した意図のもと、一連の空間整備が行われたと考えられています。

『斎宮跡発掘調査報告Ⅴ 飛鳥時代の斎宮中枢域の調査』 (2023年3 月30 日 編集・発行 斎宮歴史博物館)から第35図を引用。

 飛鳥時代の斎宮中枢域の周辺域には、伊勢道の敷設とそこから派生する道路が接続し、こうした官道や派生道路を境界として、飛鳥・奈良時代の斎王宮殿域、官衙的区域、官人層居住区域といったゾーンが分節されると考えられていて、飛鳥・奈良時代には斎王宮殿域を中心として、官衙的区域・官人層居住区域が重層的な空間構成を形成するものと想定されるようになりました。

『斎宮跡発掘調査報告Ⅴ 飛鳥時代の斎宮中枢域の調査』 (2023年3 月30 日 編集・発行 斎宮歴史博物館)から第33図を引用。

おわりに

 斎宮の話いかがだったでしょうか。
 まだ、発掘調査は続いていますので、年を経ることに徐々に様子が明らかとなっていくことでしょう。
 今後新たな発見があるかもしれませんし、あなたがそのことを目撃する生き証人になるかもしれません。
 史跡斎宮跡に行ったことがない方は是非尋ねてみて下さい。実際にその土地に行ってみまして、地形や痕跡、復元された建物からの景観などを確認することにより、古代人たちがどのような生活をしていたかが感じとれると思います。
 今回の話を通じて、斎宮のことについて興味を少しでも持っていただけたら幸いです。以上で話は終わりになります。
 最後までお付き合いくださりありがとうございました。

映像資料

 斎宮跡復元建物の説明動画です。
 どんな場所なのか確認してみて下さい。

斎宮関連HP
斎宮歴史博物館 トップページ (mie.lg.jp)
いつきのみや歴史体験館 (itukinomiya.jp)

参考文献

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斎宮歴史博物館 2002『斎宮跡発掘調査報告書 I ー図版編一』 斎宮歴史博物館
斎宮歴史博物館 2010『斎宮跡発掘資料選 Ⅱ』 斎宮歴史博物館
斎宮歴史博物館 2014『斎宮跡発掘調査報告Ⅱ 柳原区画の調査 遺構・遺構総括編』 斎宮歴史博物館
斎宮歴史博物館 2022『斎宮跡発掘調査報告Ⅳ 西加座南区画の調査 遺構写真図版編』 斎宮歴史博物館
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西宮秀紀 2019『伊勢神宮と斎宮』岩波書店
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林部 均 2001『古代宮都形成過程の研究』青木書店
李 陽浩 2015「前期難波宮の内裏規模をめぐる一考察」『建築史学』第 65 号 建築史学会
等々その他多数。


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