「余すところなく食べる」とは、どういうことかを考えてみた。
ここのところずっと鹿の内臓ばかり食べています。内臓を食べるようになった理由は、去年からお世話になっていた師匠が7月に亡くなり、必ずしも「背割り(内臓のある腹からではなく、背中から肉をとる解体方法)」にこだわる必要がなくなったからです(参:鹿レバーの串焼き)。今は別の方の解体を手伝っていますが、10月に掛かった分からは、お腹からナイフを入れ、肋骨を開いて内臓を取り出す「腹割り」で作業をやってきました。そこで、今日までに8頭を「腹割り」し、その内臓を食べてみた感想として、現時点での考えを書き留めておくことにました。
* 捨てるくらいなら食べた方がいい?
「鹿、猪などの駆除された害獣をもらってきて食べています」と言うと、いろいろな反応が返ってきます。ここでは、動物を害とみなして駆除する考えをそもそも間違いとする「駆除行為の是非をめぐる議論」についてはひとまず置いておくとして、「すでに駆除された獣の扱い」をめぐっては、日本では概ね「捨てるくらいなら食べた方がいい」という考えが浸透していると思います。よく言われるのは、「命を無駄にしない」「もったいない」「おいしく食べて供養する」などです。そうした倫理観や宗教観を土台に経済合理性を追求してきた結果として、行政主導の「ジビエ肉活用推進プロジェクト」や、民間を巻き込んだ「ジビエ産業の活性化」にも、一定の予算と関心が向けられてきました。
* カラスにも残しておいてやってくれ
私自身も「もったいない」という台詞は時々口にすることがあります。なぜ解体作業をしているのかと聞かれた時や、誰かにお肉をもらってもらう時に「捨ててしまうのはもったいないから」というセリフで、自分も相手も納得させてきたところがある。ただ、亡くなった師匠は、実はそんなことは一言も言っていませんでした。例えば、極上の背ロースが取れた時に、それを犬にやったりすれば「もったいない」と言うことはありました。貴重な肉をおいしく食べたい、という想いは人一倍強い人でしたから。ただし、それはあくまでも目の前にある肉を「食べもの」として見た時の感想であって、鹿の命がどうだとか、供養がどうとか、ジビエ肉の活用やら廃棄量の削減がどうといった文脈での「もったいない」ではなかった。根本的に「命を無駄にしないために食べる」というような考え方はしていなかったのだと思います。師匠にとって獣肉は「獲得した食料」であり、倫理観を持ち込む対象でも、効率的に活用すべき対象でも、換金対象でもなかった。だから彼は1000頭を超える獣の肉を、彼自身の好きなように扱い、全て無償で配り続けてきたのだと思います。
そんな師匠のこだわりは「背割り」でしたが、理由は2つありました。内臓の臭いが肉につくのを嫌っていたから。そしてもう一つが、内臓は人間が食べなくても森の小動物が喜んで食べるから、というものです。私が「もったいない」からと、隅から隅まで肉を削ぎ落とすべく解体作業に熱中してしまった時など、師匠が止めに入ったものです。
「カラスにももうちょっと残しておいてやってくれんか」と。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?